ミソジニー文学としての『月と六ペンス』

2022/01/08 ・ 海外文学 ・ By 秋山俊

有名な『月と六ペンス』は、美に取り憑かれた男が中年にしていきなり狂気の画家へと変貌する小説だが、この作品の底には、男性芸術家特有の「女嫌いミソジニーが暗黒の小川のように流れている。作者のサマセット・モームが作中人物に語らせるミソジニー思想は、日本人作家で言えば三島由紀夫や萩原朔太郎がエッセイなどで展開した女性蔑視論に酷似している。そしてそれを文学作品にまで昇華してしまったのが『月と六ペンス』なのだ。

女が男を愛すると、その男の魂を所有するまでは満たされない。女は弱く、強烈な支配欲を持ち、支配がなければ満足もないからだ。性根がちっぽけで、自らが把握できない抽象概念を不快に思う。物質にとらわれ理念に嫉妬する。男の魂は遙か宇宙を漂うが、女はその魂を家計簿に刻み込もうとする。

When a woman loves you she’s not satisfied until she possesses your soul. Because she’s weak, she has a rage for domination, and nothing less will satisfy her. She has a small mind, and she resents the abstract which she is unable to grasp. She is occupied with material things, and she is jealous of the ideal. The soul of man wanders through the uttermost regions of the universe, and she seeks to imprison it in the circle of her account-book.

サマセット・モーム
『月と六ペンス』

上記の箇所は、たとえば三島由紀夫の以下のような考察にそっくりである。

女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまう。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。私は湿気の高い感性的芸術のえんえんと続いてきた日本の文学史を呪わずにはいられない。

三島由紀夫「女嫌いの弁」
三島由紀夫全集 26巻, 新潮社

小説の構造的な女性無視

『月と六ペンス』における女性蔑視は、セリフだけでなく構造にも及ぶ。狂気の画家・ストリックランドに恋をした女性は、幸福の後で必ず破滅を味わう。にべもなく捨てられ、精神を病んでしまう。

ここで注目したいのが、捨てられた女性は「愚かさゆえに恋をし、この世の真実を把握できず、ヒステリックになって救済もほとんどない」一方で、「捨てた側のストリックランドはピンピンしている」という点だ。フィクションで読者の溜飲を下げるためにありがちな、捨てた側への「天罰」や「因果応報」的な描写もない。それどころか、むしろ「天罰」が下るのは捨てられた女の方である。

そしてそのような「センセーショナル」であるべき出来事が、ひたすら「どうでもいいこと」として片付けられ、忘れられていく。つまり捨てられた女性の悲劇は描写され、その人物に割かれた文章量もそれまで決して少なくなかったはずなのだが、死んだあとは全然振り返られず、まるでそんな人物がいなかったかのように、あるいはあたかも小説がその人物を忘れてしまったかのように「水に流して」、話が先へ進んでしまう。このようにセリフだけでなく、構造そのものによって、小説が「女性の悲劇を無視」する。

ストリックランドに夢中になった女性が自殺したあとに放たれる次のセリフは強烈である。

「おまえは本当にこれっぽっちでも、ブランチの生死に関心があるってのか?」

[…]

「おまえには信念を貫く気概がないな。人生に意味などないんだよ。ブランチが自殺したのはオレが捨てたからじゃない。バカで不安定な女だからだ。まあでも、もうあいつについては十分話しただろ。重要な人物でもなんでもない。来いよ、オレの絵を見せてやる」

“Do you really care a twopenny damn if Blanche Stroeve is alive or dead?”

[…]

“You have not the courage of your convictions. Life has no value. Blanche Stroeve didn’t commit suicide because I left her, but because she was a foolish and unbalanced woman. But we’ve talked about her quite enough; she was an entirely unimportant person. Come, and I’ll show you my pictures.”

『月と六ペンス』

物語の語り手は女性の死を重大事件として論じようとするが、ストリックランドの言葉を受けて反論できなくなってしまう。そしてそのまま彼と一緒に絵を見に行って、この事件は以後忘却されてしまうのだ。

作者にとって、女性という存在が本当にどうでもいいものなら、そもそも描かなくてもいいのかもしれない。しかしあえて、その女性がさも主要人物であるかのように登場させ、語った上で、その悲劇を戦略的に無視するという手法をとることによって、『月と六ペンス』は、通俗小説的なセンチメンタルを批評していると考えられる。

言わば作中の女性たちは、サマセット・モームのミソジニー思想を強調・演出するための「噛ませ犬」なのである。

(ヘッダー画像:ポール・ゴーギャン 「自画像」)

初版:2022/01/08

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