小林秀雄訳『地獄の季節』、あるいはランボー 怒りの超訳

2021/08/03 ・ 海外文学 ・ By 秋山俊

8月2日の日記の方で、小林秀雄訳『地獄の季節』は抜群に「優れている」のだが、「優れすぎていて、ランボーを置き去りにしている」のだと書いた。

翻訳ということを忘れて、単なる一つの日本語の文章としてだけ読むと、小林秀雄の文章は圧倒的に優れている。読むと、もう、これしかないのでは、と思えるほどだ。

小林秀雄訳の最大の美点は、なにより、文字に「音感」が完全に備わっている、という、リズムの卓越にある。リズムをつけるために大胆にランボーを脚色し、部分的にオリジナルを超えている――というか、超えてしまっている――とすら思える箇所もある。

ここではそれについて、もう少し具体的に書こう。

小林秀雄訳の“音楽”

小林秀雄の文章の詩情、音楽的リズムとは、どういうものか。たとえば

Ah ! cette vie de mon enfance, la grande route par tous les temps, sobre surnaturellement, plus désintéressé que le meilleur des mendiants, fier de n’avoir ni pays, ni amis, quelle sottise c’était.

季節もわかたず街道を行き、あの世のように食も断ち、物乞いらの尤物ゆうぶつよりも利慾を離れ、郷もなく友もないこの身を誇り、ああ俺の少年時、想えば愚かな事であった。

Une saison en enfer アルチュール・ランボー
『地獄の季節』小林秀雄訳

という部分の“音”と“リズム”の心地よさ。「季節もわかたず」「あの世のように」といった、緊張感を保ちながらも原文から一歩踏み出した、毅然たる訳語は、おいそれと出てくるものではない。

あるいは有名な「永遠」(『地獄での一季節』版)の中での

Plus de lendemain,
Braises de satin,
Votre ardeur
Est le devoir.

明日という日があるものか、
深紅のおき繻子しゅすの肌、
それ、そのあなたの灼熱が
人の務めというものだ。

同上

という部分など、鼻血が出るほど美しい。小林秀雄の魔力を存分に味わえる。朗読したい。千回くらい朗読したい。これらを踏まえた上で、それを超えることを要求された後世の翻訳家たちの悶絶八倒。翻訳の過程で詩の意味自体は不明になってしまっているものの、意味不明な中に美しさを感じるということは、つまり小林秀雄の文体そのものから魅力を感じているために他ならない。

小林秀雄訳『地獄の季節』「永遠」
「永遠」はランボーの中でも最も有名な詩である。映画『気狂いピエロ』や、ランボーの伝記映画『太陽と月に背いて』のラストシーンで引用されたのもこの詩であった。

前者の翻訳で「ああ俺の少年時」という、原文では前方に出ている部分を後方に回してリズムを整えたり、あるいは後者の訳文での、単なる「繻子の燠火」を「深紅のおき繻子しゅすの肌」とか、「あなたの灼熱が」を「それ、そのあなたの灼熱が」としているように、言葉を大胆に「補」ったり「入れ替え」ているのが小林訳の特色で、このような翻訳上の「操作」は全編に見られる。リズムや言語距離の問題だけでなく、おそらく、原文のままでは本人にも意味不明だったので、イメージを膨らませた部分もあるのだろう。

小林秀雄の『地獄の季節』は「誤訳」か?

しかしこのような恣意的な「操作」は同時に、小林訳の急所でもある。実際、この「永遠」の翻訳には、ほぼ全ての箇所にあやしげな訳がある。しかしこれらを省くと、小林訳にあった音感は、魔力は、幻のようにかき消えてしまう。粟津則雄訳など、原文に「忠実」な後世の訳が、なんとも味気ないのはそのせいである。これが小林訳の評価を難しいものとしている。

ある意味においては、文章を捻じ曲げてでも詩情の「美しさ」「格調高さ」を、日本語に高いレベルで「翻案」した小林訳の方が「忠実」と見ることもできる。実際、たとえば「永遠」の原文では、韻を踏むために特定の語を揃えているのだから、それをそのまま訳しては、音だけ脱落してしまい完全に片手落ちとなる。日本語側でも音のために語を変えるのは至極妥当な要求とも言える。

つまり巷で言われるように「小林訳は『誤訳』だ」と簡単に切り捨てられるような問題でもないのである。ここで話は複雑な翻訳論に突入してしまう。

山岡洋一『翻訳とは何か 職業としての翻訳』
翻訳家の山岡洋一も生前述べていたように、殊に西洋語と東洋語は言語間の距離が非常に遠いので、翻訳の究極的な理想としては、意味のみ汲み取った上で一度原文を全て消去してしまい、逐語訳の呪縛から解き放って、一から日本語として再構成しなければならない。小林訳には、それを達成できている部分も多々ある。

全体として見れば、読めば読むほど小林秀雄訳は「怪訳」である。しかし原文をすっ飛ばして、もういっそランボーは忘れて、これ単体で「小林秀雄の作品」として成立してしまうような一つの詩とも言えるので、原書や決定訳とは別に「小林秀雄“作”『地獄の季節』」として所有しておきたい一冊である。

小林秀雄の「宿命」

小林秀雄という詩人は、何かを解釈し始めると、あっという間に地に足がつかなくなり、自分が見つけた作家の特徴を拡大解釈し、自分の世界を作り上げて、そこで独り相撲を始めてしまう、という癖があった。それを真に受けすぎて彼についていってしまうと、そもそも最初の曲がり角で曲がり間違えているので、永久にことの本質に迫れない危険性がある。

小林秀雄

たとえば上記の翻訳でも「深紅のの繻子の肌」とか、「人の務め」とか、彼が補った部分に引っかかって解釈を進めたとする。しかしそもそもが、勝手に付け加えたり、入れ替えた語であるため、これらの解釈をいくら進めても、小林秀雄に接近することはできても、ランボーに接近することはできないのである。これは彼の文章全般を読む上での、最大の注意点と言えるだろう。(ヘッダー画像:ランボー著, 小林秀雄訳『地獄の季節』岩波文庫)

初版:2021/08/03 ―― 改訂: 2021/08/25

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