100年前のフェミニズム小説 / ギルマン『フェミニジア』

2021/07/20 ・ 海外文学 ・ By 秋山俊
シャーロット・P・ギルマン『フェミニジア』

女性しか存在しない、隔絶されたユートピアに迷い込んだ3人の男性による「見聞録」である。彼らが入っていく「フェミニジア」(原書では”Herland”)は理想郷として描かれている。争いもなく、全ての人間、つまり女性たちが、自分たちの文化の発展と子どもたちの成長のために生き生きと活動し、幸福に暮らしている。

ユートピア小説であり、女性が自分の意志で子供の出産をコントロールできるなど、SF的な要素もあるが、1915年の作品なので、その辺りの設定は割と適当である。しかしそのような細部にケチをつけていては、『フェミニジア』の価値は見えてこないだろう。この小説の狙いは、あくまで「女性だけの理想社会が実現していたら」というifの下に、それと比較した「現代の男性社会」の歪みや思い込みをあぶり出そうという点にあるからだ。

初期のフェミニスト作家として重要な、作者のシャーロット・P・ギルマン

私はフェミニストではない。むしろ女性への接し方について、苦言を呈されるような人間だ。しかしこの本は、そういった性別に対する立場を超えて考えさせる本だった。

たとえば作中で、この地にきた3人の1人、男性優位を高らかに主張してやまない愚昧のこん畜生・テリーは、フェミニジアの女性たちを見て憤慨する。テリーに言わせれば、彼女らは全く女性としての「慎ましさ」や「美徳」に欠けているように見えるのだ。

しかし一行は次第に、人々が「女性らしさ」とか「女性の美徳」と考えていたものが、実は世界を牛耳る男性たちの抑圧によって生まれていたということを「発見」してしまう。それらは、実は全然「女性本来の特徴」などではなく、単に「抑圧されるものたちの生存戦略」に過ぎなかったというのだ。

つまり「男を立てる」とか、可愛らしさや愛嬌で周囲を和ませる、そしてそれを「女性らしい可愛らしさ」などと呼ぶのは、単に抑圧する側である男性にとって都合の良い道徳であって、女性を愛玩動物としてしか見なしておらず、「女は男に守られる存在」などというのは歪んだ騎士道精神に過ぎない。外の世界では頼れるプレイボーイとして女を欲しいままにしてきたテリーのマッチョイズムは、フェミニジアにおいては場違いな価値観の押し付けと化してしまい、彼はほとんどただの野蛮人と見なされる。

以下の部分は、この小説におけるもっとも重要な批判だろう。

僕は女性の実用的な能力についてほめる。その能力をいいように享受して、実際は相手を侮辱していてもだ。男はまた、女性にたくみに押し付けられている徳をほめたたえる。ところがそんな徳など、これっぽっちも価値がないと思っていることを、行動では示しているのだ……。僕ら男は、この国からみればとても歪んだ「女性のあり方」を高く評価している。それは、妻が夫のもっとも満足のいく奴隷になり、給料を思い通りにできる夫に生涯縛られる、ということであり、母としての義務を果たす以外は、ただ男のあらゆる必要にひたすら応じていくという生き方だ。

シャーロット・P・ギルマン『フェミニジア』三輪妙子訳、現代書館

また全ての人間が文化発展や子育てに寄与しようと精力的に努力しているフェミニジアにおいては、「競争」という考え方は全く理解されない。主人公はそれを「発展や成長に欠かせないもの」として肯定しようとするのだが、そんな非生産的な要素がなくとも人々が勉学に邁進するフェミニジアは、文化や精神面において外の世界より遥かに発展している。結局、「競争」を良しとする主人公の価値観は、怠惰や無気力を前提とする社会から生じており、「程度の劣った社会で必要悪が賛美されているだけではないのか?」という懐疑が生まれる。

『フェミニジア』は全編がこんな調子で「フェミニジアとの比較による社会批評」が行われる。そこでは男性中心社会にとって当然の価値観が揺さぶられていく。古い小説なので、今見るとややナイーブな女性の理想主義も感じられる。いかにも優生思想的だという批判も読んだ。しかし全体としては現代にも通じる考えを持っており、文章としても読ませる。ギルマンと言えば『黄色い壁紙』が有名な女性作家だが、一発屋ではなく、確かなストーリーテリングと鋭い先見性を持った作家だとわかる。

初版:2021/07/20 ―― 改訂: 2021/08/06

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