文学好きはなぜ文学を書けないのか

2022/01/07 ・ 引用 ・ By 秋山俊

自分に関して分かったようで分からないまんまの状態にいる自意識過剰人間こそが、三島由紀夫を必要とするのである。そして勿論、この世にはそういうことが全く分からない人間というのも存在する。真面目に文学の研究なんかをしている人間というのはその最たるもので、三島由紀夫という存在は、そういう人間を嘲笑う為にこそ存在しているようなもんである。勿論、そういう人間だとて人間な訳だから、「何故嘲笑われなければならないのだろう?」と思う訳である。[…]

異常を解する能力がない人間が異常を論ずるなんて滑稽だよ。

橋本治『ロバート本』「吃音の文学」河出書房

80年代の橋本治の文章は、補足説明のない結論の書き下しが連続的に続くので分かりにくい。この部分も最初に読んだときには意味があまり掴めなかった。思うにこれは、全ての「文学を志す現実主義者」に対して放っている言葉である。そしてそれは恐らく大半の「文学好き」のことなのである。

現実主義者は文学を愛することができる。憧れることができる。しかし書くことはできないし、書けない理由もよくわかっていない。それは結局のところ、「異常」を解する能力がなく、目の前にある「異常」を「正常」に翻訳して読んでいるからではないのか。そしてそういう自分をすら正しく認識していないからではないか。

「狂人」を理解するためには、自らも「狂人」になるしかない。

私が思い出すのは『月と六ペンス』での、通俗的な画家を称賛し、超俗的な画家を理解できない妻に対して発せられる、次の痛烈な指摘である。

美とは、芸術家が己の魂を傷つけることによって世界の混沌からくり抜いた、蠱惑にして奇態なるものだ。そうして生まれた美は、全ての者に分け与えられるわけじゃない。それを理解するには芸術家と同じ苦難を乗り越えなければならない。

Beauty is something wonderful and strange that the artist fashions out of the chaos of the world in the torment of his soul. And when he has made it, it is not given to all to know it. To recognize it you must repeat the adventure of the artist.

サマセット・モーム
『月と六ペンス』

初版:2022/01/07 ―― 改訂: 2022/01/08

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