橋本治の思考:「日本人の人生目標は”社会に適合”して”人並になる”こと」

2021/12/26 ・ 引用 ・ By 秋山俊

日本社会で一番重要なのは、「適合」である。「適合」を完了した状態を「人並」と言う。日本での「人並」というのは、ある種の到達点だから、その先はない。「人並」を達成した人は、どこまでも自由でいられる。私は、それが現在の日本社会と日本人のあり方だと思う。だから、日本社会には「反省」というものがあまりない。

橋本治
『失楽園の向こう側』小学館文庫、以下同様

私のような典型的な「脱落者」(別に私自身は「脱落」したというより「脱出」したと思っているが)は、日本の状況を常に息苦しく感じているし、その一端を「『常識』ではないやつは『ヤバい』について」という文章にも少し書いた。

なぜ日本人は、常に左右をキョロキョロして他人の動向ばかり気にしているのか。それについての橋本治の考察が、あまりにも見事だったので紹介しよう。

「日本には思想がない」とはよく言われるが、日本人にとっての最大の思想は、「社会に適合すればすべてがOK」である。しかも、そういう社会が「既にある」ということになっていた。

橋本治は、日本人がなぜ「周囲に適合すること」を疑問に思わず、適合した後も、「適合し続けること」を疑うことすらできないのかを説明する。

三十になった日本人の多くが疲れているのは、それまでの人生の多くが、ただ社会に適合するためだけに割かれているからである。だから、「社会に適合出来ている」がはっきりした時には、もう疲れている。しかし、ちゃんと社会に適合出来ている人間を、使わない手はない社会の方はそう考える。社会に適合出来ている人間は、そうそう文句を言わない。文句を言ったら「社会に適合出来ていない」ということがバレてしまう仕組になっているから、社会に適合出来た人間は文句を言わない――しかも、適合した社会に疑問を抱かない。自分の適合先に疑問なんかを抱いたら、適合した努力がむだになってしまう。適合という大前提をそのままにして、テキトーに愚痴をこぼしたりへんな発散をしたりして、自分の適合状態だけを維持するのが、適合を終えた社会人のあり方だと思っている。

「だって、誰でも同じようなことをやってるじゃない」という言葉が、ほとんど万能のような意味を持つ。ゴールが「人並」である以上、自分のやっていることは、「誰でもやってること」なんだから、そこに「反省」などというものが入る必要はない。だから、モラルというものは低下する。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」である。

「誰でも同じようなことをやっている」を反転させると「なぜおまえはみんなの輪を乱すのか」になる。これが日本特有の同調圧力で「私が我慢しているのに、あいつが我慢していないのは許せない」である。そしていずれの場合でも「モラルは低下する」。他人を排撃するようになる。

圧倒的多数が「中流」の中にいれば、そこでの「個性」は問われない。「中流」という仮面をつけることによって、日本人はノッペラボーの自分を肯定したり安心させたり、弁護したりが出来るようになった。日本人にとっての「中流意識」とは、剥き出しにされたら困ったことになる「裸の自分」を守るための衣服のようなものなのである。

「上」を意識して、しかし劣等感に押し潰されないためには、「上に対する憧れというものがないわけではないが、それは自分達に似合わない」という明確な割り切りが必要になる。「似合わない」が自覚として存在しているところが、美学なのである。

(ヘッダー画像:『失楽園の向こう側』)

初版:2021/12/26

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