
ミュージシャンとしての成功を目指す2人の男女が出会い、別れ、成功の後に再び再会を果たす……と、物語としては王道(下図)。それもそのはずで、この映画は40-50年代のミュージカルの映画的再現を意図している。
ところが終始、主人公のサイコパス的で病的な自己中心さが鼻につき、興ざめな感じでスクリーンを見守ることとなった。
これを許容できる人には、それなりに楽しめる映画となるかもしれない。

考えてみると、ロバート・デ・ニーロとスコセッシの黄金期に撮られた映画というのは、常に自己愛に汚染された男が破滅していく物語である。『タクシー・ドライバー』(’76)、『ニューヨーク・ニューヨーク』(’77)、『レイジング・ブル』(’80)、そして『キング・オブ・コメディ』(’82)。ドキュメンタリー映画を除けば4作品連続であり、これは偶然とは思えない。
2000年以降には、さらに『アビエイター』(’04)や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(’12)など、デ・ニーロとは異なるタイプの“ディカプリオ的破滅型自己愛男”を撮っている。
スコセッシ監督の二大テーマと言えば「信仰」と「ギャング」だが、そこに「自己愛」というものを付け加えてもいいと思う。
自己愛を撒き散らす男は、鬱陶しく、同時に観るものの醜さを投影反射した存在にもなるので、痛ましさすら覚えることがある。しかし『タクシー・ドライバー』では、主人公の振る舞いは「痛い男あるある」くらいに抑えられていて、むしろ親近感すら覚えるほどだったし、『レイジング・ブル』はあの猛烈な独占欲がラモッタの推進力ではなかったのかと思わせるドキュメンタリーであった。『キング・オブ・コメディ』の主人公は自己愛の極地だが、そもそもがサイコパス的なストーカーを描写することを目的としていたので問題なかった。
一方で『ニューヨーク・ニューヨーク』の場合、王道のミュージカル的恋愛譚をモチーフとするのに、主人公が『キング・オブ・コメディ』並の、極端にわがままな人物として描かれている。とりわけ、女性をモノのように扱って、深夜に他人の家の窓ガラスを割りながら勝手に結婚しようとしたり、妊婦を罵倒しながらキレるあたりは、フェミニストが発狂してスクリーンに火をつけそうな勢いである。
黄金期のデ・ニーロとスコセッシが組んだにも関わらずマイナーであるのには、それなりに理由があると感じた。
満足度:4/10