『死霊のえじき』(’85) / ゾンビのことは忘れろ

2020/07/12 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『死霊のえじき』HDリマスター盤

配給会社が撒き散らした便所の落書きみたいな邦題は置いておこう。”Day of the Dead”では、ゾンビはついに昼(Day)の世界の支配者となるまで増加した。ゾンビと人間の比率が400,000:1にまで達した世界では、人類は地下に籠もらざるを得なくなり、そこでは軍人が少数の科学者を抑圧しながら暴政を敷き、どうしようもない滅亡が刻一刻と迫ってくる。

この映画、当時の世評を見るとかなり批判されていて、現在でも『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(’68)『ゾンビ』(’78)が不朽の名作という扱いを受けているのに対し、「『えじき』は地味」という評価が目立つ。

私は、良い作品だと思う。

図1:地上が完全にゾンビで覆われた世界(『死霊のえじき』1985年)

多すぎて見えないゾンビ

『死霊のえじき』の大いなる皮肉は、これがあまりにもゾンビ映画になり過ぎて、逆にゾンビ映画ではなくなってしまった、という点にある(図1)。

この映画、実は冒頭と終盤以外にまともにゾンビが出てこない。というのも、人類にとって膨張しすぎたゾンビの大群は、もはや完全に無視するか飲み込まれるかの二択しかない存在だからだ。そして人類は地下に籠もり、大半は「見えないフリ」して細々と破滅を待っているというのが『死霊のえじき』の舞台なのである(図2)。

図2:地下に籠もって対立する科学者サラ(画像上)と軍人のローズ(画像下)(『死霊のえじき』)

本作では、ゾンビは増えすぎたがゆえに後景と化している。これが前2作と決定的に違う。かつてゾンビとは戦うことができた。だが『死霊のえじき』のゾンビは触れれば死ぬ、ただの蠢く大災厄に過ぎない。

こうしてゾンビの実体から隠れた人類にとって、ゾンビはもはや“概念”と化した。この“概念”として存在するゾンビこそが、研究所に鎖で繋がれたモルモット用のゾンビたちである。ゾンビと共存できるか?とか、元の人間に戻す手段はあるか?といった“机上の空論”を戦わせるための“概念”でしかないわけだ(図3)。

図3:ひたすらゾンビ研究に邁進する科学者(『死霊のえじき』)

使命 vs. 実存

なぜ“机上の空論”をぶつけるかと言えば、彼らは「まだ文明は滅んでない!」と頑なに思い込もうとしているからである。モルモット・ゾンビというのは、言わば科学者の空想を描くカンバスなのである。

この絶望的な自作自演的状況を指摘して見せるのが、地下深くで静かに暮らすパイロットのジョンである(図4)。

図4:喧騒から距離を置き、静かに暮すジョン(『死霊のえじき』)

彼は、サラたち科学者が必死でゾンビ研究に明け暮れていることは徒労であると指摘する。彼は、自分たちが保管している大量の「誰も読まない失われた文明の記録」を、科学者たちがしがみつく「研究」や「人間性」になぞらえる。

この洞窟深くに何が保存されているか知ってるか?大企業の帳簿や記録とかだよ。あるいは防衛部門の予算とか、お気に入りの映画のネガフィルムとかだな。[…] で、それが何だって言うのかな、サラ。こういったファイルや記録を保管することが。俺たちがいつか気にするか?全部を見る機会すらあるか?こんなの全長22.5kmのでっかい墓だろ!

Hey, you know what all they keep down here in this cave? Man, they got the books and the records of the top companies. They got the defense department budget down here. And they got the negative for all your favorite movies. […] Now, what does it matter, sarah darling? All this filing and record keeping? We ever gonna give a shit? We even gonna get a chance to see it all? This is a great big fourteen-mile tombstone!

『死霊のえじき』

彼のセリフこそ、最も重要な言葉である。

既に文明は崩壊し、人類は絶滅寸前で、どうあがいても取り返しがつかない。だから今更ゾンビの研究やら治療法に邁進するのは、無意味な記録の束を読み込もうとすることと同じく無益である。そしてエンディングの描写は、ジョンの考え方をこそ肯定していると解釈できるだろう。

謎を解明する日なんて、永遠に来やしない。それはちょうど、人間がなぜ星がそこにあるのか解明できないようなもんなんだよ。そんなことを解き明かすのは人間の仕事じゃない。だから、サラ、君がやっているのは時間の無駄だよ。そして時間こそ、俺たちに残された唯一のものじゃないか。[…] やることは山程ある。山程ね。俺たちや他の人間がいる限り、人類はやり直せる。新しく始めて、子供を作って。そして彼らに教えるんだよ。ここに二度と戻ってくるな、記録を掘り返すなって教えてやるんだ。

You ain’t never gonna figure it out, just like they never figured out… Why the stars are where they’re at. It ain’t mankind’s job to figure that stuff out. So what you’re doin’ is a waste of time, sarah. And time is all we got left, you know. […] There’s plenty to do. plenty to do. So long as there’s you and me and maybe some other people, we could start over, start fresh, get some babies. And teach ‘em, sarah, teach ‘em never to come over here… – and dig these records out.

『死霊のえじき』

『死霊のえじき』というポスト・アポカリプス考察映画においては「文明崩壊後、人類のヒエラルキーはどうなるか」「ゾンビはどう進化するのか」「何をして生きていけばいいのか」といった考察が深められていく。しかし最終的には「見えないフリ」をして平和な場所で新しく生活するしかない……という結論が肯定されるのである(図5)。

図5:ヘリで逃げようとする先は……(『死霊のえじき』)

現在を生きよ

この一見、超後ろ向きな結論は、しかし人間の生への最大限の肯定であると私は思う。科学者たちがしがみついているのは文明の残骸だ。彼らは人間社会の亡霊によって、もはや到来するはずもない人類の曙へ向かって現在を捧げさせられている。そんな不毛なことに時間を費やすのではなく、今本当にやりたいことをしながら主体的に生きるべき……という結論。

それはまるで、メディアから日々大量のどうでもいい情報を受け取り、膨大なTo Doリストを消化しながら流行に追従し、その暁に何らかの「達成」とか「完成」が訪れると信じて生きる現代人への批判のようでもある。

とは言え、難点もある映画だ。『死霊のえじき』は最大瞬間風速の中でしかホラーしていない。つまり映画の中で局所的に、突風のように凄まじいホラー描写があるのだが、そこ以外は無風なのである。

会話シーンが大半を占める『死霊のえじき』は活字的である。ロメロのゾンビ3部作はホラーからSF、あるいは文学寄りになっていき、思弁的になった。一方で、最後のスプラッター・シーンの連続は相変わらず見事であり、過去最高の出来だと思う。映画全体のサビ臭い空気も見事。

結論としては“渋い”ゾンビ映画である。

満足度:8/10

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投稿: 2020/07/12 ― 更新: 2020/08/12
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