『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(’85) / ヒルバレーのリアリティ

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』Universal, 1985年

この映画はあまりにも有名で、良い意味で万人にウケる内容であり、洋画劇場でも死ぬほど放送されているため、「好きな映画はなんですか?」と訊かれて「BTTF」と答えても「BTTFは大抵の人が好きで君の好みが分からないから、それ以外で」という会話が発生するようなレベルの作品である。私にとっても映画をよく観るキッカケになった作品の1つであり、録画したVHSをテープが文字通りクシャクシャになるまで再生したものだ。

ストーリーは、街で変わり者として知られる発明家のドクからある日、タイムマシンの発明を知らされたマーティ(マイケル・J・フォックス)が、過去改変の影響で自らの存在を危うくしてしまい、自分が消滅する前に過去の修正をはかるというもの(図1)。

図1:タイムトラベルに成功を目撃して呆然とするドクとマーティ(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)

タイムトラベルと情報量

しかしこの作品が面白いのは、映画の面白さの中核が「過去の出来事の改変」にあるわけではないことである。ここが一般的なタイムスリップものやループものと決定的に違う。

確かにマーティの目的は過去の修正にある。しかしそれは物語をドライブするための目標設定であって、プロットそのものは極めてありふれているし、単純なラブロマンスに過ぎない(自分の両親の恋のキューピッドになるだけ)。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画の面白さ、それは作品の持つ圧倒的な情報量にある。

マーティは1955年と1985年を往復するが、舞台は同じ街・ヒルバレーであり、過去と現在では同じ場所に同じファミリーが、しかし異なる時代を生きている。両親はまだ高校生で、彼らの学校ではマーティを叱った教頭が、同じように30年前の彼の父親を叱っている。街の同じ場所には同じ業種の店があるが、時間だけが全て30年前に戻っている。

このように全く同じ舞台で、時間のレイヤーだけをズラすことにより、観客は街の“時間経過”だけを純粋に観察することができる。この時間の変化による街の違いを観察し、楽しめること、これが本作の特異な箱庭的面白さであり、圧倒的情報量が為せるワザである(図2)。話の筋そっちのけで細部のディテールに注目し、製作者が仕込んだ様々な小ネタや伏線を発見することに面白さを見出す人が多いのはこのためだ。ビデオゲームで言えば、この映画の面白さは『GTA』や『The Elder Scrolls』シリーズに近い。

図2:1985年(上)と1955年(下)のヒルバレー(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)

またBTTFの情報量が多く感じられる理由は、2つの時代がデジャヴ的な相似形に作られているからであって、身近な例で言えば“間違い探し”の2枚絵に似ている。BTTFは意図的にデジャヴを感じさせる作りになっているため、そこにある差異が明らかである。誰の目にも「そこに違いがあること」あるいは「意図的に繰り返されていること」が分かる。そのためそこに目に見えない情報があることが誰にでも分かり、結果として認識できる情報量が多く感じられる(普通の映画でも、“誰にも認識してもらえない小ネタ”というのは沢山ある)。

ヒルバレーの持つ「リアリティ」とは

普通に考えれば、変化の激しい現代で30年も経てば、同じ場所に同じファミリーが住み、同じ仕事を続けている可能性は高くないのだが、そんなことはどうでもいい。監督と脚本家の異常な作り込みにより、映画には無限と思えるほどの仕掛けが施されており、その情報量によって架空の街・ヒルバレーが実際に歴史を持って存在しているかのような錯覚を覚える。つまりこの映画には、言葉のより豊かな意味での「リアリティ」が備わっているのである。

多くのタイムトラベルものは、基本的に時間変化を「誰かの過去」という“点”でしか捉えない。つまりタイムトラベルの焦点は「自分と同じ時間を共有していない、ifの世界における“あの人”に干渉する」ということにあるのであって、その変化は直線的であり一次元的であり、標的以外の空間はほとんど存在しないに等しいことも多い。それは標的以外の情報が用意されていないからである。

一方、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムスリップは四次元的で、中心人物たちの背後に存在するはずの膨大な情報を描くことで、空間そのものの時間移動の描写に成功している。これは凄いことである。

アクションと音楽のシンクロ

最後に1つだけ。映画の監督はロバート・ゼメキスであり、スピルバーグはあくまで製作総指揮という立場なのだが、この映画にはとてもスピルバーグ的な部分がある。それは音楽とアクションの完璧なシンクロである。

本作の中でテーマ曲に合わせてタイムマシンが時速140キロに加速する場面は、曲とアクションの連動が凄まじいレベルで、何度観ても問答無用で感動できるのだが、このシンクロの仕方がとてもスピルバーグ的である。『インディ・ジョーンズ』シリーズに匹敵するクオリティと言っていい。しかし私の考えでは、これはゼメキスのカラーではない。スピルバーグはどこまで作品に影響を与えているのだろうか。

満足度:10/10

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通常、映画のシリーズものは1作目以外駄作と相場が決まっており、それは続編が単に商業的理由から無理やり生み出されるからなのだが、このBTTFに限っては3部作によって映画が完全な円環を成しており、むしろ続編の存在が1作目の価値を高めてすらいるので、3作全て鑑賞することを強く勧める。特に、3作目は傑作。

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投稿日時: 2020/07/03 ― 最終更新: 2020/07/09
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