
ゲテモノ監督の作る王道映画
子供の頃から『ロボコップ』はとにかく完璧な映画だと思っていて、文句のつけどころがないし、何回観ても滅法面白かった。大人になってから見直すとまた違うかとも思ったが、そんなことはなくて、やはり掛け値なしに傑作だと感じた。
それで、何故こんなにワクワクする映画なのか、今更ながら問い直すと、これは極めて高い完成度で作られた王道のヒーロー映画だということに気が付き、奇妙な感じがした。何しろ私の中での本作の監督、ポール・ヴァーホーヴェンのイメージは「ゲテモノ監督」「倫理観が蒸発した五本指の悪魔」という感じだし、実際この『ロボコップ』もヒドい、いや非道い内容である(念の為書くと、全部褒めてる)。
最低の悪党、最高のヒーロー
マーフィーは心優しい警察官であり父親だが、犯罪組織を追い詰めた先で返り討ちに遭い、そこで地獄を見て死ぬ。犯罪者たちはマーフィーを射的の的に見立てて手足をふっ飛ばしていき、半狂乱に逃げ惑う彼をオモチャにしながらゲラゲラ笑って撃ちまくり、その様子が本当に容赦なく描かれる。モゲた手を見て絶望するマーフィーの表情、それを見て大喜びする犯罪者たち(図1)。無念の死を遂げたマーフィーは、しかし無敵のロボコップとして復活してデトロイトを浄化していく。

もちろん一般人だった男が殺され、ヒーローとして転生を果たす物語など掃いて捨てるほどある。しかしそれらの物語では、大抵、男は悪党たちに“型通り”に殺され、“お約束”的に復活するに過ぎない。その過程は手続き的であり、設定を作るための儀式である。
そのようなヒーロー誕生の手続きは、だが『ロボコップ』においては、迫真性の次元が違う。徹底した残虐。神などこの世にいるものか。人間はここまで残虐であり、都合の良い救いなど存在しない、とでも宣言するかのような、目を背けたくなる処刑シーン。マーフィーの死は、それほどまでに痛ましい。
結局、大抵のクリエイターは頭の中の想像で、今まで見てきた創作物の反復としての「悪党」を描いているに過ぎない。しかしヴァーホーヴェン映画の演出は違う。「この監督の過去に何があったのか?」と思うほどの、徹底した人間不信的な描写。捕えられたマーフィーには確実な死の予感しかない。機械として蘇生中も、完全にモノ扱いされてそこに人間性のカケラもない。ヴァーホーヴェンの世界に神は存在しないのだろう。
そうして転生したヒーロー、ロボコップは、奇跡的なまでに格好いい。鋼の肉体に敵の銃弾を全て受け切り、機械の正確性と予測機能に支えられたバースト・ショットにより、最短の動作で犯罪者を制圧する。呆然と見守る被害者への決め台詞「ご協力感謝します」はギャグなのかマジなのか分からない。

善悪の極端な振り幅
『ロボコップ』のヒーロー映画としての面白さは、このどん底から最高地点までの振り幅にある。悪党をとことん残酷で救いなく描いた上で、最高のヒーローを登場させる。ある意味、どちらも極端なのだ。その振幅が激しすぎて、普通のクリエイターのそれがメトロノームだとすれば、ヴァーホーヴェンのそれは、勢いがつきすぎて針が振り切れ、勢い余って台本体がひっくり返るほどの振幅がある。
そういう点で、やはりこの監督はブレていない。王道でありながら、とにかくアクが強い。アクが強いからこそ、極端な悪党と最高のヒーローを同時に繰り出せる。王道のヒーロー映画と書いたが、お行儀よくバランスの良い「王道」ではなく、悪党もヒーローもどこかネジが外れぶっ飛んでいて、極端な存在同士がシーソーの両側に座ることで、凄まじく緩急のついたジェットコースターのような釣り合いが成立している。
もちろんED 209が暴走して役員を射殺してしまうシーンに見られるように、ものすごく残酷な場面なはずなのだが、なぜかコミカルに見えてしまうヴァーホーヴェン・マジックや、本編に無関係なのに何度も挿入される「1ドルで楽しむべ~!」のCMセンスなど、ユーモアセンスも抜群と言っていい。要するに、この映画は全てを持っている。こんなアクの強い監督の映画に「全てを持っている」と評価するのは妙な気分だが、『ロボコップ』は本当にパーフェクトだ。
満足度:10/10
こんな人にオススメ
- とにかくスカッとするアクション映画を観たい
- ハードなバイオレンス描写が大好き
- 昔ながらのゴテゴテでパワフルなメカが好き
見どころ
- ドジっ子ED 209が、会議室でうっかり役員を射殺☆
- 自分で起き上がれないドジっ子ED 209のもがく姿
- 合間合間に挿入されるCM各種
- 「いい腕だな、名前は?」「マーフィー」