
以下の解説・解釈はネタバレなので注意。
主人公の名前は「ビル」なのか?
この映画は短いながら、かなり込み入った話になっている。予算と人材の都合上、撮影に1年かかったというから、その間に色々と設定が膨らんだのかもしれない。
映画を観終わって、エンド・クレジットを見ているときに「アレ?」と思うのが、主人公ビルの名前が”the young man” (若い男)としか表示されないことだ(図1)。

主人公はビルと名乗るが、本名かどうかは疑わしい
クリストファー・ノーラン
『フォロウィング』DVD盤コメンタリー(以下同様)
作中には、ビルという名が偽名であることを明確に裏付ける手がかりはない。しかしこの名前は、尾行していたコッブに不意打ちで質問されて答えた名前である。本来赤の他人であるはずの男に名前を聞かれ、本名を答えたという保証はない。さらに、ブロンド女性との挨拶ではダニエルと名乗っており一貫しない。なお主要人物の名前は他にも「金髪女」など、風貌でしか表されていないが、面白いことに一番正体不明であるはずのコッブの名前は、そのままコッブとなっている。
そして本作が主人公の回想による一人称的な視点から語られることを考えると、主人公に明確なキャラクター性が与えられていないことにも納得がいく。つまり「都会のどこにでもいそうな、成功せず、フラフラしている誰か」という風に、一種の匿名化(一般化)された存在として「ビル」を描くことで、観客が自分自身を重ねて観れるような存在にしているのではないだろうか。
大都会の「群衆」という名の孤立者たち

彼は他人と無理矢理、関係を結ぼうとして、その私生活に引き付けられるんだ。この脚本はロンドンでの生活から生まれたといえる。玄関を出た途端に多くの人に囲まれる。人混みにのまれるんだ。それであることを思いついた。群衆の中から1人選び、その人生を想像することをね。
クリストファー・ノーラン監督は、ロンドンを歩く群衆に、独特のルールが存在することを指摘する。それは「周囲の人間との歩調を無意識にズラす」ということである。
私は30年以上東京に住んでいるが、確かに常に誰かと同じ道を、同じ方角に歩く都会では、そのような暗黙の距離の取り方が存在する。見知らぬ他人が自分と同じ歩調だと警戒してしまう。そうして追い越し、通り過ぎることによって「私はあなたに無関心だ」という空気を漂わせることでお互いを守っている(図2)。
都会では万事がこのような「無関心のサイン」で溢れていて、各人は互いに干渉せず匿名化している。都会では、他人に気を払わないことがマナーになっている部分もある。全ての人間関係は一時のものに過ぎず、また他人同士がお互いに一々構っていると、シグナルが多すぎて煩わしくなってしまうためだ。でないと、手を貸さないといけない人は多すぎるし、手を貸してくれる人も多すぎる。
話を映画に戻そう。『フォロウィング』の主人公は、このような「全ての人間が孤立した群衆」の中の1人である。彼はその孤独には耐え難い。だから「見知らぬ他人を追跡し、擬似的に関係を生み出す」という方法で他人と繋がる。この設定は監督の体験から生まれただけあって、奇妙なリアリティがある(ちなみに、主人公たちが泥棒なのも、実際に監督が空き巣に入られた経験が元になっている)。
ビルはあくまで群衆の中の1人であり、”one of them”な存在だ。ここで「主人公の名前が特定できない」ことと、本作のテーマが強く繋がる。我々観客もそんな群衆の中の1人だし、誰もがビルのような、大人数の中での奇妙な孤独を感じ得るのだ。
『フォロウィング』と『ファイト・クラブ』
本作は1998年公開の映画だが、1年後に出た『ファイト・クラブ』(’99)と様々な点で共通している。
- 主人公が匿名化された「僕・私」である
- 主人公が現代的な病に悩んでいる
- 主人公がカリスマ犯罪者に惹かれ、同化していく
- そのカリスマ犯罪者が金銭以上の目的で犯罪を重ねる
- ラストにパートナーの正体を巡るどんでん返しがある
実際、コッブは『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンに雰囲気が似ている。とりわけ、泥棒先の家で住人に「何が本当に大切なことなのか気づかせる」という描写など、タイラーにそっくりだ。
また主人公ビルがコッブに同化していく姿も似ている。『フォロウィング』ではコッブの助言どおりにビルが髪を切り(図3)、それから金髪女性に少し強引にキスをするシーンがあるが(図4)、これはコッブのカリスマ性に惹きつけられたコッブが、彼と同じような行動を取ることで同化しようとしていることを表す。


またジェレミーはこの場面の演技で、ビルがコッブを真似ていることを示している。この場面のビルが持つ自信と攻撃性は、長髪だった頃のビルとは大きく異なっている。
『ファイト・クラブ』でも、主人公がタイラーを意識しながらマーラを追い返すシーンが存在する。
『ファイト・クラブ』は1996年にチャック・パラニュークが出した同名小説が原作であり、ノーランがこの小説を読んだかどうかは不明。現代的な病を背景にしたために、たまたま似ただけなのかもしれないが、興味深い現象である。