『エクソシスト』解読、父性の不在、宗教と科学の狭間で

2020/05/02 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『エクソシスト』1973年

多様な解釈を許容する奥深さ

『エクソシスト』は一筋縄ではいかない映画で、非常に情報量の多い作品だ。本作の特異な点は、作品が因果関係の明示を徹底的に避けている点である。その徹底ぶりは、映画作品としては「異例」と言ってもいいくらいだ。つまり、この映画の中では「こういうことが起きた」という現象しか伝えられず「こういう理由で、こうなった」とは誰も明確に示せないのである。序盤のイラクで発見される像、吠える犬、振り子時計、ペンダント、怪奇現象、悪魔憑き……全ては単なる偶然の一致や精神錯乱のようにも見え、あるいは1本の線で繋がっているようにも見える。そこに“繋がり”を見出すのは、あくまで観客自身に過ぎない。

繰り返し鑑賞すると分かるが、この映画では言語化されていない情報がかなり多い。例えば序盤、カラス神父が母親を訪ねるシーンでは、いかにも治安の悪そうな地域に済む老婆に、壁にはカラス神父の幼い頃の写真や、ボクシングをしているときの写真まで掲げられている。こういうシーンから人物関係や過去を推察できるように作られている。この貧しい親子の場面が、経済的に豊かなマクニール家とザッピングするかのように交互に描かれるのも特徴的だ。

『エクソシスト』1973年

こういう“一瞬の描写”が映画内には本当に多く、注意深く観ていないと見逃してしまうし、初見だとあまり理解できないだろう。しかしこういった細かな描写が、繰り返し観ていると色々な意味を帯びているように見え、観るものの想像をふくらませる。そして映画が「これはこういう意味ですよ」と説明するのを避けることによって、観客は映画の行間に無限の背景を思い描くことができるのである。

安易な現代批判は好きではないが、「わかりやすさ」が求められる最近の映画は言語による説明が多すぎ、このような豊かな描写が少ないのは確かだ。そのため人によっては、この映画は「分かりにくい」と感じるかもしれない。「ながら観」ではこの映画の面白さの多くが欠落してしまうだろう。しかしどうか、映像の細部までじっくりと観てほしい。決して小難しい映画理論が必要な作品ではないのだ。

このような作品なので「『エクソシスト』では、この解釈こそが真実だ」と主張するのはナンセンスだし、野暮なことだと考えている。また監督もそんなことは望んでいないだろう。しかしここでは「よくわからなかった」「他の人はどう考えているのか」と思う人に向けて、いくつか私なりの考えを提示したい。なお続編は後付と思われるので、ここではあくまで本作のみから読み解く。

リーガンはいつから悪魔に憑かれていたのか

これについて、映画では確定できるような描写がない。一応小説だとウィジャ盤(日本でいう「こっくりさん」)で遊んでいたとき、リーガンに話しかけてきたハウディ船長が悪魔の正体であるとされている。これは恐らく、最も支持されている説だろう。ただ映画ではこの前にも、夜中にリーガンの寝室の窓が不自然に開け放されているシーンが描かれている。私が最初に観たときは、このときに悪魔が入ってきたのかと思った。

リーガンはなぜ悪魔に取り憑かれたのか

劇中ではメリン神父により「良い娘だからこそ、我々を絶望させるべく選ばれた。自分がまるで獣のように醜く、神の愛に値しないと思わせようとしている」といった説明が入る。

これは作中で最も悪魔に詳しいと思われる人物の言葉なので貴重な意見だが、事件の全容を観ている観客には、それよりも物語序盤に強調される「父親の不在」「母親と映画監督との恋愛」といった要素の方が直接的と思われる。思春期の娘が父の不在を悲しみ、母親には新しい恋人ができ、母も父も自分から遠ざかっていくように感じられる。ここを悪魔に付け入られたと考えるのは自然な解釈だろう。

不安定な思春期のリーガン

加えてこの部分は、悪魔憑きとしての解釈ではなく、映画を心理学的に分析できるようにもしている点が非常に面白い。

つまり(少数派かもしれないが)事件をあくまでリーガンの精神異常や周囲の幻覚のように解釈する場合、この思春期不安の描写は、これから起こるリーガンの異常の決定的な要因として挙げられる。その後の事件も、このような危機感から(あるいは留守中に性的暴力などを受けて)多重人格化したリーガンがバークを突き落とし、凶暴化しだしたという「自作自演説」「多重人格説」を考えられるかもしれない。

なぜ悪魔は偽物の聖水に苦しんだのか

『エクソシスト』

「リーガン多重人格説」が生まれる大きな要因となっているのが、悪魔がカラス神父の偽物の聖水に苦しめられる場面である。この聖水は実際にはただの水道水なので、悪魔には何の効力もない(悪魔が水そのものを苦手でない限り)。その後、リーガンが何故か知っていたカラスの母親の件なども「ギリギリ彼女が知ることができたかもしれない」と思わせるシーンがあり、観客もカラス神父と同じくらい疑心暗鬼になってしまう、上手い演出だと思う。

悪魔があくまで本物であると考えると、この場面は「カラス神父を撹乱し、からかうための演技」といった説明くらいしかないだろう。実際、悪魔は念力を小出しにしたり、英語を逆から喋ったりと、宗教と科学の狭間で揺れ動くカラス神父を挑発するかのような言動を繰り返している。

カラス神父と父性

『エクソシスト』

話を少し戻してリーガンの父親が不在である点について。「父性の不在」を作品テーマの1つとして考えた場合、カラス神父こそがリーガンに父性を示す存在であると考えることができ、これは物語構造に上手く収まる。つまり父親の不在に始まった怪奇現象を、カラス神父が父親代わりとなることで終息させるのである。

またこの解釈は、カラス神父が身につけている聖ヨセフのメダルを、リーガンが(取り憑かれた状態で)引きちぎることで悪魔を引き剥がすことに成功し、事件の後もマクニール家に託される(カラス神父の形見が父性の象徴として残り続ける)ことと、ピタリと符合しないだろうか。

余談:「宇宙で死ぬわ」って何?

パーティーに顔を出したリーガンの衝撃的な「宇宙で死ぬわ」発言のシーンだが、この直前に宇宙について会話する宇宙飛行士の場面があり、その彼に向かって「おまえは宇宙で死ぬだろう」と予言している。

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投稿: 2020/05/02
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