『ジョーカ-』(’19) / 社会の生きづらさと、病の症状としてのジョーカー

『ジョーカー』劇場公開ポスター
この記事のネタバレ度は「低」:トレイラーで明かされている程度のネタバレ

『ジョーカー』はどのような映画か

2019年後半の映画界にワイルドカードの如く乱入してきた、あまりにも美しく、あまりにも危険な映画。『タクシー・ドライバー』(’76)『キング・オブ・コメディ』(’83)へ猛烈なオマージュを捧げつつ、まるでハリウッドを50年前の過激なニューシネマ時代に逆行させるかのような、時代に逆立ちしたアナーキーな反逆児。

図1:暴徒の大歓声を浴びながら、パトカーの上で踊るジョーカーの姿(『ジョーカー』)

この作品は今の時代にあって、平然と社会規範に挑戦し、観客に際どい扇動を行う(図1)。ワーナー・ブラザーズには今頃、大量の苦情が、インドの農村にそびえ立つ牛糞のごとく積もっているだろう。それは当然のことであり、承知の上で作品を世に問うた監督の心意気。観た者は試されている。「ジョーカーは気狂い」「暴力肯定映画だ」という感想を抱き、一蹴できる人たちは幸せ者である。この映画は多分本当にその人達には不要なので、綺麗さっぱり忘れよう。

図2:精神治療を受けながらコメディアンを目指すアーサー(『ジョーカー』)

あらすじを簡単に述べる。パーティー・ピエロとして働く主人公・アーサー(ホアキン・フェニックス、図2)の住むゴッサムシティでは、他者への無関心が心の貧困と暴力を生んでいる。誰もが自分の身を守ることに必死過ぎて、問題が起これば他人を切り捨て、誰も信用することができない。カウンセラーの前ですら、アーサーの心の叫びは常に右から左に素通りしていく。

おまけにアーサーは突発的に笑い出す持病を抱えていて、夢であるコメディアンになることもできない。そうして貧困にあえぐ彼は、いつしか現実と乖離した妄想の世界に耽溺するようになる。一方、街の権力者であるトーマス・ウェインは市民の声を無視しながら、TVで雄弁に語り続ける。「ゴッサムは道を失ってる!……」(図3)

ゴッサムシティの無秩序に紋切り型の感想しか言わないトーマス・ウェイン
図3:「金持ちを殺せ」ムーブメントを批判する、大富豪で政治家のトーマス・ウェインは、後のバットマンの父親(『ジョーカー』)

世界を逆立ちして解釈するアーサー

『ジョーカー』で徹底的に描かれているのは、社会に充満する生きづらさ、治まらない息苦しさである。そして最終的に、愛する母ペニーからも裏切られていたと感じたアーサーは、あまりにも残酷な現実にそれまでの自我を保てなくなり、「世界が間違っている」のではなく、「自分の世界に対する認識が間違っている」のだと結論づける。

「人生は悲劇だと思っていた。だが今、分かった。僕の人生は喜劇だ。」
“I used to think my life was a tragedy, but now I realize it’s a comedy.”

『ジョーカー』

ここが物語の急所である。普通の物語では、「世界が間違っている」という結論に達する。だから「間違った世界」を正すために、バットマンは法を超えた自律的な守護者(ヴィジランテ)となって、社会が裁けない悪を裁く。正義の使者は、葛藤に苦しめられながらも、「正しい自分」と「間違った世界」という対立構造だけは崩さない。

ところがアーサーことジョーカーは、間違っていたのは自分だと考えて狂うことを選択する。つまり「間違った世界」に対して「狂った自分」を用意して、「間違った世界」を相対的に「正しい世界」として再解釈する。今までずっと何もかもあべこべでデタラメだと思っていたけど、自分が逆立ちして見てみれば、何だ、全部正常じゃないか……というわけである。

倒立した道化の世界では、異常者こそが正常であり、放火はワイルド・パーティであり、死はジョークである(図4)。彼こそは「従来の常識を越えた『正常』な人間」として、世界は「善人」と呼ばれる患者を収容する巨大な精神病院であることを解き明かす、精神科の権威である。

地下鉄でピエロの仮面をかぶった暴徒に襲われる警官たち
図4:暴徒にリンチされる警官を見て踊りだすアーサー(『ジョーカー』)

そうして道化は、堂々と殺人に走る。警官に対する暴徒の反撃も、他人を笑い者にする司会者マレー(ロバート・デ・ニーロ)に対する制裁も、権力者たちの横暴に対する“オチ”に過ぎない。バカな人間たちが大騒ぎし、間抜け面で血をピューピュー流している映像を生放送しながら、ジョーカーは番組のキマり文句「それが人生!」を言い放って茶化す(実際にはその台詞が中断されて、道化がさらに笑い者になるという二重構造の“オチ”が構成される)。

『ダークナイト』のジョーカーとの違い

この映画は11年前に公開されたクリストファー・ノーランの『ダークナイト』(’08)でのジョーカー像(図5)を意識して観ずにはいられないが、結論から言えば全くの別物である。というか2つの作品は、寓話としてのジョーカーの方法論が根本的に異なる。

『ダークナイト』におけるヒース・レジャー版ジョーカー
図5:故ヒース・レジャーが演じたジョーカーの姿(『ダークナイト』)

『ダークナイト』におけるジョーカーは社会の歪みを直接体現する存在として描かれる。つまり「社会の病気そのもの」であり、交渉不能な純粋悪として、悪の思念体としてバットマンに襲いかかる(伊藤計劃はこれを「世界精神型の悪役」<ヴェルトガイスト・ヴィラン>と呼んだ)。

一方で『ジョーカー』内のジョーカーは、「社会の病気の症状」としてアーサーの精神に起きた病変である。『ダークナイト』のジョーカーのような病に冒されて生み出される悪が、今作でのアーサー型のジョーカーである。こう考えると、『ダークナイト』で描かれたのは悪の総論であり、『ジョーカー』は各論だとも言える。

『ジョーカー』は意味不明な暴力映画か?

『ジョーカー』には明確なカタルシスが用意されていない。普通のダークヒーローものでは、悪に倒されるさらなる巨悪を用意して、主人公の「悪」を相対的「正義」として描き、カタルシスを演出する。ところが本作で殺されるのは「善人」ばかりであり、殺人者はあっけらかんとしている(図6)。

自分の殺人に対して無邪気な解説や感想を漏らすアーサー
図6:「やつらが最低だったから殺した」「音痴だったから」と動機を述べるアーサー(『ジョーカ-』)

アーサーに完全に感情移入して観る場合には、TV放送で起きる悲劇と、暴火の中で立ち上がるシーンが「盛り上がりどころ」ということになるが、この映画の中に打倒されるべき明確な「悪」は存在しないのである。ラストも観客を煙に巻くような締め方だ。

より多くの観客に受け入れられたかったのなら、この映画は「ジョーカーが倒すべき巨悪」を設定すべきだった。だが、しなかった。なぜか?そのような結末は、結局既存の「正義 vs. 悪」の物語の再生産に過ぎず、狂気に突入するしかなかった道化の、悪にしかなれなかったその人生の、遠回しな否定にしかならないからだ。そのような他者否定はまさしく、劇中のゴッサム・シティで進行している事態であり、それを繰り返す限り、合わせ鏡のような否定の連鎖から一歩も抜け出すことができない。

このような映画を指して「結論がない」とか「精神病的」とか「殺人の奨励」と評価することは簡単である。それは同時に、最高に安易な紋切り型でもある。なぜ映画は常に、分かりやすい娯楽を提供するエンターテインメントでなければならないのだろう?そこで描かれていることが社会規範に則ってないから、直ちにそれを悪だとすること、それこそが否定と排除であり、解釈の墓場なのだ。『タクシー・ドライバー』は暴力肯定だろうか?『ファイトクラブ』(’99)はテロを推奨しているだろうか?

同時に私は、戦争映画を観て異口同音に「戦争の悲惨さを描いている」と解釈するような紋切り型も貧しいと思う。なぜ戦争映画が「戦争の悲惨さ」などという、分かりきったメッセージを内包する必要があるのだろう?戦争が悲惨であることくらい、焼死体が地獄の蟻塚のように積まれた画像1枚見れば、児童でも理解できることだ。むしろそんな至極当然をメッセージとして作品に指向性を持たせてしまえば、フィルムはただ説教的であからさまな映像装置として消耗され擦り切れる。

映画は“現在”を活写せねばならない

だから映画は、時に、ただ世の中が直面している現実を描けばいい。現実とは、自殺や銃乱射事件が絶えない、社会への憎悪と相互不信に満ちた、生きづらい世の中そのものだ。そこから何を汲み取るかは各人に委ねられる。描かれた問題に対して沈黙を貫くからこそ、映画は真に雄弁でいられる。「トッド・フィリップス監督はジョーカーを肯定していますか?」などと尋ねる野暮はよそう。解説は他人の解釈に過ぎない。

ゴダール(図8)はかつて「アウシュヴィッツを当時描けなかったから、ヌーヴェル・ヴァーグ(50年代の新しい映画潮流)は遅すぎた」と語った。

図7:ジャン・リュック・ゴダール

すべては終わっていた。強制収容所の映画が撮られなかった時点で完成されたんだ。その時、映画はその義務を完全におろそかにしていた。[…]強制収容所を撮らなかったことにより、映画は全く機能し得なかった。利用されることなく死んでしまった良き下僕の寓話のようにね。

ゴダール(発言)細川晋(訳)、「現代思想・ゴダールの神話」青土社, 1995年

映画は、芸術は、現在まさにそこにある問題を、問題が起きているその時代に描かなければ手遅れなのだ。救えないのだ。人を救えない芸術は、単なる人類の伝記として、記録装置として活躍するに過ぎず、まさしく「利用されることなく死んでしまった良き下僕の寓話」に堕する。ボードレールが評したように、眼前の事象こそが芸術家が取り組まなければならない“現在”<モデルネ>であり、その時代の生命をフィルムの中に写し撮るから、映画は永遠の欠片を含む。

『ジョーカー』とは何か。それは現代の寓話だ。

寓話から得られる果実とは何か。それは寓話の解釈に“私”という主体を挟み、咀嚼し、そこに残るものだ。

評価:9/10

関連作品紹介

既に述べた通り、この映画はスコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』『キング・オブ・コメディ』から数多くの引用を行っており、テーマ的にも重なる部分が多い。孤独な男が狂気に走る様子は『タクシー・ドライバー』的で、黒人女性やアーサーが行う「拳銃自殺のポーズ」はこの作品のラストシーンからの引用。またアーサーの妄想癖やショーの乗っ取りは『キング・オブ・コメディ』そのもので、この映画ではコメディアンを目指す男がスターの男性に執拗なストーカーを繰り返す。

他にもアーサーが何度も昇降する長い階段はフリードキン監督のオカルト映画『エクソシスト』(’73)を真似たものであり、乱雑なニューヨークでのロケや、企業のエリートを階段で背後から撃ち抜くシーンは『フレンチ・コネクション』(’71)のオマージュ(この映画では丸腰の犯人でも容赦なく撃つ刑事の狂気がテーマとなっている)。全体として70年代のアメリカン・ニューシネマを強烈に意識して引用することで、『ジョーカー』全体の時間軸である70年代らしさが生まれている。

資本主義社会の歪みが狂気のトリックスターを生み出す、という点では『ファイトクラブ』(’99)も抑えたい作品。表面的な暴力性や「信頼できない語り手」の類型である点など、共通点が多い。

『ジョーカー』(C) DC. Joker (C) 2019 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited and BRON Creative USA, Corp. All rights reserved.

『ダークナイト』 (C) 2008 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. BATMAN and all related characters and elements are trademarks of and (C) DC Comics.

映画の記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2020/02/12 ― 最終更新: 2020/02/14
同じテーマの記事を探す

記事内容に関して

作品や書籍の感想・評価・考察はあくまで筆者の考えであり、他人の意見を否定するものではありません。 作品の面白さを破壊しない範囲でネタバレを書くことがあります。