『ジョーカ-』(’19) / 社会の生きづらさと、病の症状としてのジョーカー

2020/02/12 ・ 映画 ・ By 秋山俊

2019年後半の映画界にワイルドカードの如く乱入してきた、あまりにも美しく、あまりにも危険な映画。『タクシー・ドライバー』(’76)『キング・オブ・コメディ』(’83)へ猛烈なオマージュを捧げつつ、まるでハリウッドを50年前の過激なニューシネマ時代に逆行させるかのような、時代に逆立ちしたアナーキーな反逆児。

この作品は今の時代にあって、平然と社会規範に挑戦し、観客に際どい扇動を行う。ワーナー・ブラザーズには今頃、大量の苦情が、インドの農村にそびえ立つ牛糞のごとく積もっているだろう。それは当然のことであり、承知の上で作品を世に出した監督の心意気を買いたい。

あらすじを簡単に述べる。パーティー・ピエロとして働く主人公・アーサー(ホアキン・フェニックス、図1)の住むゴッサムシティでは、他者への無関心が心の貧困と暴力を生んでいる。誰もが自分の身を守ることに必死過ぎて、問題が起これば他人を切り捨て、誰も信用することができない。カウンセラーの前ですら、アーサーの心の叫びは常に右から左に素通りしていく。

図1:精神治療を受けながらコメディアンを目指すアーサー(『ジョーカー』)

おまけにアーサーは突発的に笑い出す持病を抱えていて、夢であるコメディアンになることもできない。そうして貧困にあえぐ彼は、いつしか現実と乖離した妄想の世界に耽溺するようになる。一方、街の権力者であるトーマス・ウェインは市民の声を無視しながら、TVで雄弁に語り続ける。「ゴッサムは道を失ってる!……」(図2)

ゴッサムシティの無秩序に紋切り型の感想しか言わないトーマス・ウェイン
図2:「金持ちを殺せ」ムーブメントを批判する、大富豪で政治家のトーマス・ウェインは、後のバットマンの父親(『ジョーカー』)

世界を逆立ちして解釈するアーサー

『ジョーカー』で徹底的に描かれているのは、社会に充満する生きづらさ、治まらない息苦しさである。そして最終的に、愛する母ペニーからも裏切られていたと感じたアーサーは、あまりにも残酷な現実にそれまでの自我を保てなくなり、「世界が間違っている」のではなく、「自分の世界に対する認識が間違っている」のだと結論づける。

「人生は悲劇だと思っていた。だが今、分かった。僕の人生は喜劇だ。」
“I used to think my life was a tragedy, but now I realize it’s a comedy.”

『ジョーカー』

ここが物語の急所である。普通の物語では、「世界が間違っている」という結論に達する。だから「間違った世界」を正すために、バットマンは法を超えた自律的な守護者(ヴィジランテ)となって、社会が裁けない悪を裁く。正義の使者は、葛藤に苦しめられながらも、「正しい自分」と「間違った世界」という対立構造だけは崩さない。

ところがアーサーことジョーカーは、間違っていたのは自分だと考えて狂うことを選択する。つまり「間違った世界」に対して「狂った自分」を用意して、「間違った世界」を相対的に「正しい世界」として再解釈する。今までずっと何もかもあべこべでデタラメだと思っていたけど、自分が逆立ちして見てみれば、何だ、全部正常じゃないか……というわけである。

倒立した道化の世界では、異常者こそが正常であり、放火はワイルド・パーティであり、死はジョークである(図3)。彼こそは「従来の常識を越えた『正常』な人間」として、世界は「善人」と呼ばれる患者を収容する巨大な精神病院であることを解き明かす、精神科の権威である。

地下鉄でピエロの仮面をかぶった暴徒に襲われる警官たち
図3:暴徒にリンチされる警官を見て踊りだすアーサー(『ジョーカー』)

そうして道化は、堂々と殺人に走る。警官に対する暴徒の反撃も、他人を笑い者にする司会者マレー(ロバート・デ・ニーロ)に対する制裁も、権力者たちの横暴に対する“オチ”に過ぎない。バカな人間たちが大騒ぎし、間抜け面で血をピューピュー流している映像を生放送しながら、ジョーカーは番組のキマり文句「それが人生!」を言い放って茶化す(実際にはその台詞が中断されて、道化がさらに笑い者になるという二重構造の“オチ”が構成される)。

『ダークナイト』のジョーカーとの違い

この映画は11年前に公開されたクリストファー・ノーランの『ダークナイト』(’08)でのジョーカー像(図4)を意識して観ずにはいられないが、結論から言えば全くの別物である。というか2つの作品は、寓話としてのジョーカーの方法論が根本的に異なる。

『ダークナイト』におけるヒース・レジャー版ジョーカー
図4:故ヒース・レジャーが演じたジョーカーの姿(『ダークナイト』)

『ダークナイト』におけるジョーカーは社会の歪みを直接体現する存在として描かれる。つまり「社会の病気そのもの」であり、交渉不能な純粋悪として、悪の思念体としてバットマンに襲いかかる(伊藤計劃はこれを「世界精神型の悪役」<ヴェルトガイスト・ヴィラン>と呼んだ)。

一方で『ジョーカー』内のジョーカーは、「社会の病気の症状」としてアーサーの精神に起きた病変である。『ダークナイト』のジョーカーのような病に冒されて生み出される悪が、今作でのアーサー型のジョーカーである。こう考えると、『ダークナイト』で描かれたのは悪の総論であり、『ジョーカー』は各論だとも言える。

『ジョーカー』は意味不明な暴力映画か?

『ジョーカー』には明確なカタルシスが用意されていない。普通のダークヒーローものでは、悪に倒されるさらなる巨悪を用意して、主人公の「悪」を相対的「正義」として描き、カタルシスを演出する。ところが本作で殺されるのは「善人」ばかりであり、殺人者はあっけらかんとしている(図5)。

自分の殺人に対して無邪気な解説や感想を漏らすアーサー
図5:「やつらが最低だったから殺した」「音痴だったから」と動機を述べるアーサー(『ジョーカ-』)

アーサーに完全に感情移入して観る場合には、TV放送で起きる悲劇と、暴火の中で立ち上がるシーンが「盛り上がりどころ」ということになるが、この映画の中に打倒されるべき明確な「悪」は存在しないのである。ラストも観客を煙に巻くような締め方だ。

より多くの観客に受け入れられたかったのなら、この映画は「ジョーカーが倒すべき巨悪」を設定すべきだった。だが、しなかった。なぜか?そのような結末は、結局既存の「正義 vs. 悪」の物語の再生産に過ぎず、狂気に突入するしかなかった道化の、悪にしかなれなかったその人生の、遠回しな否定にしかならないからだ。そのような他者否定はまさしく、劇中のゴッサム・シティで進行している事態であり、それを繰り返す限り、合わせ鏡のような否定の連鎖から一歩も抜け出すことができない。

このような映画を指して「結論がない」とか「精神病的」とか「殺人の奨励」と評価することは簡単である。それは同時に、最高に安易な紋切り型でもある。なぜ映画は常に、分かりやすい娯楽を提供するエンターテインメントでなければならないのだろう?そこで描かれていることが社会規範に則ってないから、直ちにそれを悪だとすること、それこそが<他社>の否定と排除であり、解釈の墓場なのだ。『タクシー・ドライバー』は暴力肯定だろうか?『ファイトクラブ』(’99)はテロを推奨しているだろうか?

「殺人を犯すのは<異常者>だよ。そんなのは当然<まともな人間>である私たちには関係ない。ああ、やだね。なぜああいう気狂いがいるんだろう。私たちは毎日こんなに一生懸命働いているのに」

このような<他者>の否定と排除――物事を<善>と<悪>、<正常>と<異常>の二元論で単純分割し、自分が理解できない<他者>を、全て異常な狂ったものとして、理解自体を拒絶し、社会の片隅で処分する考え方。

これは20世紀終盤までの典型的な図式化の方法であり、古くは『サイコ』(’60)から『羊たちの沈黙』(’92)まで、<悪>はこのような類型に収まっていた。それは非常に20世紀的な思考様式だった。しかし『セブン』(’95)が登場し、主人公が殺人者を<異常者>だと挑発した後に、「私が<異常者>だと安心するかね?」と反論されたことによって、このような<正常>対<異常>の図式は根底から否定され、ひどく時代遅れで硬直的態度であることが暴露されてしまった。

映画の底力

我々はもはや、殺人やテロをする人間たちを「私たちと関係ない<異常者>」とあっさり決めつけ、安穏としていられるような単純な時代に生きていない。ジョーカーのような人間は、見方によっては<異常者>であるが、ある視点から見ると<私たち>そのものである。<私たち>が<正常>なのは、単に環境の違いに過ぎないのではないか。

少なくとも映画は、20年以上前から、それくらいの自己批判性を持った世界を展開している。私は、『ジョーカー』を東京丸の内のドルビー・シアターのこけら落としとして観たのだが、すぐにこれが多くの人に誤解されるだろうと思ったし、近くにいた若いカップルは困惑していた。それは仕方ないことかもしれない。しかしこういった危険な、際どい社会批判を堂々と展開できるところに、映画の底力をも感じた。

『ジョーカー』には、最後の最後で「裏・どんでん返し」もあるので、またさらに問題は複雑化している。本作は映像・音楽共に最高レベルであり、個人的には本作にこそ、アカデミー作品賞を獲ってほしかった。

評価:10/10

関連作品紹介

既に述べた通り、この映画はスコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』『キング・オブ・コメディ』から数多くの引用を行っており、テーマ的にも重なる部分が多い。孤独な男が狂気に走る様子は『タクシー・ドライバー』的で、黒人女性やアーサーが行う「拳銃自殺のポーズ」はこの作品のラストシーンからの引用。またアーサーの妄想癖やショーの乗っ取りは『キング・オブ・コメディ』そのもので、この映画ではコメディアンを目指す男がスターの男性に執拗なストーカーを繰り返す。

他にもアーサーが何度も昇降する長い階段はフリードキン監督のオカルト映画『エクソシスト』(’73)を真似たものであり、乱雑なニューヨークでのロケや、企業のエリートを階段で背後から撃ち抜くシーンは『フレンチ・コネクション』(’71)のオマージュ(この映画では丸腰の犯人でも容赦なく撃つ刑事の狂気がテーマとなっている)。全体として70年代のアメリカン・ニューシネマを強烈に意識して引用することで、『ジョーカー』全体の時間軸である70年代らしさが生まれている。

資本主義社会の歪みが狂気のトリックスターを生み出す、という点では『ファイトクラブ』(’99)も抑えたい作品。表面的な暴力性や「信頼できない語り手」の類型である点など、共通点が多い。

『ジョーカー』(C) DC. Joker (C) 2019 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited and BRON Creative USA, Corp. All rights reserved.

『ダークナイト』 (C) 2008 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. BATMAN and all related characters and elements are trademarks of and (C) DC Comics.

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初版:2020/02/12 ―― 改訂: 2021/08/24

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