『ドアをノックするのは誰?』(’67) / スコセッシの大半が詰まった原点

2020/05/25 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『ドアのノックするのは誰?』海外版ポスター

自己表現型の創作者・スコセッシ

クリエイターには自伝から書き始めるタイプの人間と最後に自伝を書くタイプの人間がいて、スコセッシ監督は前者である。それは長編デビュー作である『ドアをノックするのは誰?』や、その変奏と言える『ミーン・ストリート』(’73)が、監督自身の極めて自伝的な内容であることからも明らかだ。

そして持論では、自伝から書き始めるタイプの作家はそもそもの創作動機が自己の内面の表現にあるので、その後も常に作家自身のルーツや、治まらない強迫観念について、手段を替えながら表現し続けることになる。だからこそシチリア系イタリア移民であるスコセッシ(図1)は、信仰やギャングに関する映画を生涯にわたって撮り続けている。『タクシー・ドライバー』(’76)の印象がとにかく強いスコセッシだが、あれは持ち込んだ脚本家の体験を映像に起こしたものであって、彼のルーツからは外れた作品である。

図1:若き日のマーティン・スコセッシ監督

前衛的な映像作品

前置きはこれくらいにして『ドアをノックするのは誰?』についてだが、ハッキリ言って前提知識無しで観ると、取り分けキリスト教圏外の人間には伝わりにくい映画である――映像・内容の両面で。

まず映像に関しては、明らかにゴダールを始めとするヌーヴェル・ヴァーグの強い影響化にあり、映像が前後の繋がりを無視して頻繁にジャンプするし、映画全体が現在と過去をザッピングする形で進行する(図2)。

図2:過去と現在を飛び飛びに往復しながら、多彩な編集を駆使する。スコセッシ的な俯瞰やスローモーションも出現(『ドアをノックするのは誰?』1967)

加えて不鮮明なモノクロ映像、暗部が潰れまくり状態の悪いフィルム(これはソフトの問題でもあるが)、ノイジーな音源と、理解を妨げる要因が揃っている。映画そのものもかなり非説明的であり、『ミーン・ストリート』もそうなのだが、若いスコセッシの荒削りさも手伝って状況理解がやや難しい。こういった実験的で攻め攻めの映像は、後に『ディパーテッド』(’06)などで復活している。

しかしこのようなわかりにくさを克服して観てみると、かなり前衛的で表現の工夫に富んだ、監督の創作意欲に溢れた作品であることが分かるだろう。私は一回目の鑑賞時には「よく分からないな」と思って眠気すら感じたのだが、制作背景や全体像を俯瞰してから再鑑賞したら、驚くほど鮮やかな映画であると感じられた。

映画を撮ることが新しい何かへの挑戦だった。[…]僕らはゴダールやトリュフォーやアントニオーニを見て熱狂していたんだ。

――マーティン・スコセッシ
『スコセッシはこうして映画をつくってきた』p.78

『ドアをノックするのは誰?』はどのような話か

話の筋としては、スコセッシの分身的な人物であるJ.R.(ハーヴェイ・カイテル)という若者と、フェリーで偶然出会った「あの女性」との恋というのが中心にあり、そこにカソリックの信仰(=恋人の処女性)という問題がつきまとう。そして悩んだJ.R.が逃げ込んでしまう惰性の場が、悪友であるガガやジョーイとの「バカ騒ぎ」なのである。

映画の最初に、幼いJ.R.の母親の家の食事風景と、それを見守るカソリックの聖像が描かれ、ここでJ.R.のルーツが説明される(図3)。

図3:カソリック教徒として育ったJ.R.を暗示する冒頭シーン(『ドアをノックするのは誰?』)

成長したJ.R.は、仲間とのバカ騒ぎの合間にも「あの女性」のことを回想せずにはいられず、フラッシュバックのようにイメージを蘇らせながら、友人の話を上の空で聞いてる。J.R.は恋人と愛し合うのだが、常にその様子を、あたかも死んだ母親が諌めるかのように聖像が見つめている。だから彼は「処女」である女性と関係を持てず、かといってそれを正面から言うのもかっこ悪いので「僕を愛しているなら(セックスできない)理由が分かるはずだ」と遠回しに言い、信仰の問題に苦しむ(図4)。

図4:J.R.は常に傍に聖像(=信仰)の存在を感じ続ける(『ドアをノックするのは誰?』)

やがて恋人の処女性についての問題が発生し、行き場を失ったJ.R.は友人との乱痴気騒ぎに逃げる。しかしそこがJ.R.の本当の居場所であるかは疑問だ。恋人のバッグから彼をくすねて騙しているガガ、チンピラのように振る舞い「俺はおまえと同じくらい頭がいいんだ」と言い張るジョーイ。彼らはJ.R.の悩みを真剣に聴いてくれるような存在ではない(図5)。

図5:J.R.の心の隙間を埋める悪友とのバカ騒ぎ(『ドアをノックするのは誰?』)

J・Rの信仰が彼のジレンマを複雑化する。彼の仲間たちにとっては教会とはパスタのようなもの、祖先から受け継いだ遺産のひとつに過ぎない。けれどもJ・Rには強い倫理観があった。[…]それでも、彼の信仰の核には罪を許す心もあった。それに、イエスは姦淫した女を責めるのを諌めたのではなかったか?

『スコセッシはこうして映画をつくってきた』p.94

フェミニズム映画の初期作品

この映画でバランスが取れていると思うのは、最後の最後にJ.R.の「君を許すよ」という「寛大な」言葉に、女性の方が強い反感を抱いて拒絶するところ。

このような強い自尊心を持った自律する女性像は、まだウーマン・リブ運動(フェミニズムの走り)が始まったばかりの当時としては新鮮だったはずであり、フェミニストからはこのラストシーンが絶賛されたという。この一方的な「赦し」に対する拒否宣言がなければ、『ドアをノックするのは誰?』は、かなり古臭いカソリック映画で終わっていただろう。

そもそも、自分は女性で遊んでいるのに恋人の処女性ばかり神経質になっているJ.R.は、現代人、取り分けアジアの人間から見れば、ナイーブかつ自己中であることは言うまでもなく、男性優位的思考をしている。女性が観ていると、中盤はイライラしてしまうのではないだろうか。J.R.を許さなかったあの恋人が映画を救ったのだ。

私が気に入っているシーンを挙げると、J.R.と女性が最初に出会うフェリーでの、長回しを駆使して続けられる二人の、ぎこちなくも生き生きとした会話。屋上を歩きながらニューヨークを見下ろし、話し合うシーン。街のゴチャゴチャした佇まい。スコセッシの人生、価値観、当時の街の風景、そういった時代性の活写こそが『ドアをノックするのは誰?』という映像作品そのものである。評価:7/10

ここに描かれているのは現実だ。現実の出来事を描いている。僕の街の普段の生活をね。

――マーティン・スコセッシ
『スコセッシはこうして映画をつくってきた』p.91

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投稿: 2020/05/25
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