『キング・オブ・コメディ』 / コメディと見せかけてホラー

『キング・オブ・コメディ』日本版ポスター
この文章のネタバレ度は「低」。ほとんどネタバレしない。

『キング・オブ・コメディ』の不安感

物語全体が表面的な「コメディ」の装いで進行するが、コメディではない。これは妄想型の狂人を描いたサイコホラー映画である。

『キング・オブ・コメディ』は、極めて特殊な恐怖を演出する。この映画には恐ろしいエイリアンも幽霊も登場しないし、画面はずっと明るくてエキストラが多く、不気味なBGMも流れない。しかし他のどんな映画よりも見ていておぞましい。

コメディアンを自称する男のルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)の、あの、常ににこやかで無邪気とも言える振る舞いのまま、赤の他人の私的領域にズカズカと入り込んでいく様。相手の都合など全く考えない。拳を振るうことはないが、彼の態度こそ真の意味で「暴力的」と呼んでいい。穏やかな調子のまま平然と犯罪に及び、誰もいない「スタジオ」で大騒ぎし、空想の相手にせがまれてサインに応じる様子など、戦慄すら覚える(図1)。

図1:日夜、ハリボテの司会者やゲストに対して空想トークを繰り広げるルパート(『キング・オブ・コメディ』1983)

この映画は観ていて、ときに息が詰まる。特に他人の邸宅に、勝手に恋人リタを招待してしまうシーンなど、痛ましくて思わず目を背けたくなるほどだ。あまりにルパートの振る舞いが常軌を逸しているので不安感を覚えるのだが、表面上はあくまでコメディ風に明るく進行するので、その異常性が一層際立っている。身の毛がよだつ存在とは、人を食い殺す猛獣などではない。人の皮を被った心の怪物である。

本作は精神破綻者を描いた同じスコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』(’76)の弟的な作品と呼んでいいが、その異常性は兄を凌駕している。スコセッシ作品に典型な「アクセルベタ踏みの破滅型主人公」の極北に位置すると言っていい。

疑似ドキュメンタリー映画として

ここまで読んで観る気が失せた方もいるかもしれないが、この作品が他のスコセッシ作品と同じく、優れた映像芸術である点は保証しておく。本作は、精神異常者の行動を観察する「疑似ドキュメンタリー映画」としての興味深さを持っている。『キング・オブ・コメディ』の人物造形にはリアリティがあり、メディアの時代である現代社会に残留し続ける、偶像を巡る歪みと狂気を克明に描いている。

本作には、お茶の間の超人気スターであるジェリー・ラングフォードを執拗に追い回す狂人男女2人組が登場する。男がサイコパス的な性格が強い一方、女はストーカー気質である。男性主人公であるルパート・パプキンの病質は、執着対象であるジェリーの言葉を、とにかく自分に都合の良いように曲解してしまうこと。

ルパート・パプキンの脳内変換術

例えばただの一般人に過ぎないルパートからの「今度食事をしましょう」という提案に、初対面のジェリーが明らかに嫌そうな顔で去っていくのに、ルパートの中では「彼と食事することを約束した」ということになる。そしてそれを断固として「事実」と主張し、ジェリーのオフィスに押しかけてしまう(図2)。

図2:勝手にジェリーと約束したと思い込むルパート(『キング・オブ・コメディ』1983年)

ルパートのようなストーカーについて、脚本を担当したポール・ジマーマンは次のように語る。

そのとき彼らが自分とスターとの関係を話しているのを見て、すごくショックを受けた。ある男なんか“バーブラ(編注:米国の歌手・女優)と仕事をするのは難しいんだ”とまで言うんだ。バーブラ・ストライサンドはそいつにつきまとわれるのは迷惑だとはっきり言ってるんだよ。それなのに、やつの解釈では“バーブラと仕事をするのは難しい”になってしまう。奴の口から説明されると事実が折れ曲がってしまうんだ。それをルパート・パプキンというキャラクターの核の部分にした。

メアリー・パット・ケリー著、斎藤敦子訳『スコセッシはこうして映画をつくってきた』p.262-263, 文藝春秋,1996年

ルパートの振る舞いは狂気的だが、一方で、これは人間の脳が備える普遍的な性質を反映しているとも言える。つまりルパートのようなストーカーは「人は見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞く」という人間性質を極大した存在に過ぎない。ルパートの「痛い」振る舞いを、過去の自分に重ねて見てしまう人もいるだろう。

ジェリーのスター人生七難八苦

『キング・オブ・コメディ』で面白いのは、スターを巡る偏った人間関係を多角的に捉えている点だ。例えばジェリー・ラングフォードが道端でサインに快く応じたのに、続いて「病気の母に電話で一言」と迫られて断ると「癌になるがいいわ」と逆ギレされるシーンがある(図3)。

図3:勝手に言い寄られて勝手に罵倒される人気司会者ジェリー(『キング・オブ・コメディ』)

これはスター役を演じるジェリー・ルイスの実際の経験が元ネタだが、このようにスターに対する極端で一方的な振る舞いをするのは、主人公ルパートだけではない。「観客はスターに強い親しみを覚えているが、スターの方は一人ひとりのファンを全く知らない」という認識の非対称性が浮き彫りになっているのだ。

『恐怖のメロディ』とマーシャ

ルパートの“サイドキック”として活躍する狂人ヒロインのマーシャも随分と出来上がったストーカーだが、彼女は“ストーカー映画”の走りと言える『恐怖のメロディ』(’71)の女ストーカー・イブリンによく似ている。私の考えだと、『恐怖のメロディ』で描かれたストーカー像に、サイコパス的ストーカーのルパートという新たな類型を加え、80年代版として変奏したのが『キング・オブ・コメディ』である(図4)。

図4:自分勝手な妄執でストーカーを繰り返す点で共通するマーシャ(左)とイブリン(右)(画像左側は『キング・オブ・コメディ』、右側は『恐怖のメロディ』1971)

1971年の『恐怖のメロディ』でイーストウッド演じる主人公がラジオDJだったのは、当時のスターがまだラジオ中心だったからだ。しかし79年にバグルスが「ラジオスターの悲劇」を歌ってTV時代に入っていることを明らかにしたように、80年代は急激にTVとスターが力を伸ばしていく。

その間にジョン・レノンがマーク・チャップマンというファンの男に射殺されるといった事件がつぎつぎに起こり、ルパート・パプキンのような人物を駆り立てるのは何か、その原因に焦点を当て、正体を明かすことの重要性が増大した。スターへの関心が一般に爆発的に増加したのは1980年代の初め頃だった。

『スコセッシはこうして映画をつくってきた』 p.261

こうしてマイケル・ジャクソンは「ビリー・ジーン」(’83)を熱唱し、『タクシー・ドライバー』に触発された男はレーガン大統領を狙撃し、デ・ニーロらを始めとするスターたちも「ストーカー被害」という現象を次々に報告するようになった。こういうわけだから、80年代版の『恐怖のメロディ』である本作が、テレビスターを巡るサイコパスとストーカーの話になるのは、時代的な必然なのだ。

なお最後になるが、この作品はラストの展開が最も気に入っている。事件そのものをジョークにした最後の長回しは一世一代のブラックジョークであり、「一夜だけでも王になりたい!」と絶叫して彗星の如く燃え尽きるルパートに、なぜか急に感情移入してしまう(あんなに恐ろしいやつだったのに!)。

そう、実はルパートの正体は「勇者」だったのである。極まった「勇者」は、現実世界ではただのストーカーだったのである。妄想と現実が入り混じり、観客を煙に巻くラストのオチも見事。評価:8/10

見所

  • 妄想トークショーをママに怒られるルパート
  • マーシャのアグレッシブ求愛(犯罪)
  • ラストの長回しギャグとオチ

こんな人にオススメ

  • 人間心理の闇に興味がある
  • 気になる相手と電話しているフリをして人前で話したことがある

関連作品紹介

ストーカー映画の『恐怖のメロディ』に加えて、もちろん同じスコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』は抑えておきたい作品。タクシーの運転手として孤独を抱え続けた男が、次第に妄想を強めていき凶行に走るという点では『キング・オブ・コメディ』に近いが、叙情的な劇伴や夜のNYCの綺羅びやかな都市景観など“美”の要素も強く、観やすい。むしろこちらの方がコメディ的という感想を抱くかもしれない(「シリアスな笑い」という分類)。

『キング・オブ・コメディ』の「映画自身が、スターを巡る社会の歪みを描く」という点は自己言及的であると言え、メディアによるメディア批判という点では、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』(’88)にも通じるものがあると言えるだろう。

近年の作品では、本作への強烈なオマージュを連発し、高評価も得た『ジョーカー』(’19)が、なんと言っても白眉。ジョーカーはルパートの分身的存在で、TVのコメディアンを自分に重ね、やがて凶行へと走る。どちらの作品も、主人公が現実と虚構の区別がついていない点で「信頼できない語り手」の類型に属すると言っていい。

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投稿日時: 2020/02/09 ― 最終更新: 2020/02/13
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