『アド・アストラ』解説・考察――なぜ猿は凶暴化し、父は狂ったのか?

図1:凶暴化した実験動物『アド・アストラ』2019年

最近論じられるのは、孤独のほうが、死刑よりも残酷で異常な罰だということだ。孤独に追いやられた人々は、心に過酷な拷問を加えられたも同然だ。内なる声が聞こえ始め、過去を回想するようになる。

――ジェームズ・グレイ

※:本記事での引用は、全てUHD BD盤のコメンタリーから引いてきたジェームズ・グレイ監督の発言。本記事は完全ネタバレなので注意。

『アド・アストラ』は言葉による直接的な解説を控えた、全体としてやや難解な作風であり、そのことが賛否両論の評価を招いている。サージ電流が地球を襲う、というハリウッド的スケール感を漂わせる設定から一転、内省的な旅に入っていき、SF映画というより文学作品のようになっていく。

ブラッド・ピットにトミー・リー・ジョーンズという二大スターに興味を持って本作を鑑賞した人の中には、単純なエンタメではないその内容に戸惑いを覚え、釈然としない様子で映画館を後にした人も多いだろう。ネットの書き込みにも、途中で起きた事件の意図が分からないという感想が目立つ。

しかしUHD BDのレビューに書いたように、監督はコメンタリーにおいては非常に饒舌に作品を語っている。「監督の発言=確定した作品の意味・正解」ではないが、 本作を紐解く大きな手がかりとなるだろう。

実験動物の凶暴化が意味するもの

映画を観終わってから「アレッ?」と思うのは、物語中盤に救難信号を発していた宇宙船での出来事はなんだったのか、ということである(図1)。あの場面だけSFスリラーのようであり、トラブルは一見、物語のテーマに直接的に関与しない。航海中に船長が死んだというだけのことにも見える(そして船員たちは結局全滅する)。あのシーンにはどういう意味が込められているのだろうか?

このシーンで表現したかったこと。それは宇宙の旅で予測不能の事態が起きるとは、実際にどういうことなのか。そして地球の生物がどうなるかということだ。挙動は完全に変化する。無重力なので当然、体も変わってくる。

ブラッド・ピット演じるロイ
図2:実験動物の中に自分たち親子を発見するロイ・マクブライド(『アド・アストラ』)

「あの眼の中に、父と同じ怒りを見た。それは僕の中にもある」というのがヒントになっているのだが(図2)、実はこの凶暴化した宇宙猿は、主人公の父・クリフォードとの相似形として描かれている。つまりクリフォードが狂っていたように、この猿もまた狂っていたのである。

人間は地球という固有の環境で生まれ、進化してきた。人間が「我々の知る人間」として思考し、活動できるのは、地球という環境にいるためである。ところが宇宙という別世界で、宇宙船という人工的な空間に長時間閉じ込められていると――猿は猿ではなくなり、人は人ではいられなくなってしまう。

そのような一種の「環境適応」が起こるのではないか、というSF的仮説が『アド・アストラ』の大きなテーマだ。

統合失調症の父・クリフォード

トミー・リー・ジョーンズ演じる父・クリフォード
図3:息子に対しておどおどした態度を見せるクリフォード(『アド・アストラ』)

このような「環境適応」あるいは「気狂い」は、本作で宇宙に長期滞在した全ての人間に現れている。ロイは途方もない長い旅路で孤独に悩まされ、調査船「ケウェウス」の乗組員たちは反乱を起こし、クリフォードは彼らを殺害して船に閉じこもった。

ロイとクリフォードの再会シーンは印象的だ。そこに在る父親の姿は、誇らしく宇宙服を着ていた写真や、ビデオメッセージの中で喋っていた彼とは全く違う(図3)。息子の登場に対し、まるで子供のようにビクビクし、ロイが伸ばした手から、思わず腕を引っ込める(図4)。どちらが息子なのかわからない状態だ。

図4:息子から逃げるように手を引っ込める父親(『アド・アストラ』)

監督のジェームズ・グレイは、このクリフォードについて「統合失調症のような状態」と表現している。

そして置かれる状況や頭に浮かぶ考えなども、地球とは違うものになってくるんだ。宇宙は果てしなく空虚で無限の空間だ。まさにこの空間が、日常のささいな懸念をすべて放棄させる。

例えばあなたも、旅先などの非日常空間でSNSなどを覗くと、そこでいつも通り生じている知り合い同士の日常空間が、ひどく遠のいていて、どうでもいいものと感じることがないだろうか。別世界の出来事のように感じないだろうか。地球から45億キロ離れた海王星の隔離空間では、大統領選挙とか、都会では自殺する若者が増えているとか、親戚に子供ができたとか、多分果てしなくどうでもいい。

「地球的な煩悩」から開放された宇宙船の人工空間では、あらゆる人間関係が遠のいている。「去る者は日々に疎し」と中国の言葉にあるように、結局、人は頻繁に会っていない人間のことは次第に思い出さなくなる。視界に入らないものは存在しないのと同じだ。

宇宙では食事も衣類もすべて選ばれている。残るのは宇宙空間だけだ。悪くもなく、良くもなく、何でもないもの。まさにそれが残酷なんだ。つまり地球と切り離され、孤独を強いられる。日常的な煩わしさの欠如が、自分自身との対話を余儀なくさせるんだ。

つまりクリフォードは、あまりにも長い年月を地球から離れて孤独に過ごしたために、家族のことを忘れ、人工空間に存在する使命、即ち「地球外生命体を発見する」こと以外はどうでもよくなってしまったのだ。

この父親と息子のシーンで伝えたかったことがある。それはつながりが欠如しながらも、ロイはまだ愛せるということだ。クリフォードは心の奥底でそれを放棄している。

なぜ父親は自殺し、ロイは生還したのか?

これについての、監督からの明白なコメントはない。

一つ言えるのは、父親には既に帰るところなんて存在しなかったということだ。

クリフォードは永い宇宙滞在で、すっかり変質してしまった。そして「任務のため」とは言え、いまや大量殺人犯だ。これまでの輝かしい業績の果てにたどり着いた最後の任務で、膨大な時間を費やしたにも関わらず成果を得られず、異常者として地球に帰還する――そんなことを選択できるはずもなく、宇宙空間に閉じこもった。もはやかつてのクリフォードはどこにもいない。

父親の死に際して息子も「なぜいつまでも続ける……」と絶望に囚われるが、ここでロイは遠方に輝く太陽を眼にする(図5)。

図5:『アド・アストラ』

ロイは太陽の光を見ることで、地球での生活を思い出し帰ることになる。

地球を思い出したことが、ロイと父親の運命を分けたのだ。

月面での略奪者とのカーチェイスシーンはなんのため?

この『マッドマックス』みたいな戦闘シーンは世界観の描写のために挿入されたと思われる(図6)。映像と音響的には作中の一つのピークなので、大予算の映画として見せ場を作る意図もあったのだろう。

図6:月面で盗賊集団に襲われる一行(『アド・アストラ』)

月にはヘリウム3がたくさんある。これを使った商売が展開されるだろう。国家間で条約も結ばれる。だがほとんど守られないだろう。かつてのヨーロッパ系アメリカ人は、アメリカ先住民と数々の条約を結んだとされる。だが1つも守られなかったと思う。

一方で“中間地帯”が多く、資源の略奪者たちも出てくる。中間地帯と言っても、高価な天然資源はあるだろうからね。

作中の中尉も話しているが、月面はまだ開拓や整備が不十分で、かつての西部開拓時代のような無秩序が混在する。これもまた「宇宙に進出した人類がどうなるか?」という空想科学的考察の1つなのだ。

ただ作品全体の中の位置づけとして、やや浮いているように見えるのも事実だとは思うが。

もしも地球が孤独だったら?

『アド・アストラ』の最大のテーマは「孤独」である。そしてこの言葉には、ミクロとマクロで2つの意味が込められている。

一つはミクロな、個人レベルでの孤立だ。それはロイやクリフォードに現れた変化である。もう一つはマクロな孤独、つまり宇宙規模で地球生命は孤立しているのではないかという絶望である。

図7:『アド・アストラ』

ジェームズ・グレイは序盤の地球をバックにしたシーンを映しながら、地球外生命体について論じるSF映画に共通する点として「宇宙人は存在する」という前提があることを指摘する(図7)。

多くのSF映画には共通点がある。それは宇宙人の存在が念頭にあることだ。[……]我々はある人物の発言を作品の根底に置いた。『2001年宇宙の旅』の原作者、アーサー・C・クラークだ。

彼は次のように述べた。“地球外に生命が存在してもしなくても、どちらも同様に恐ろしい”。“存在しない”とした映画は、今まで観たことがなかった。宇宙に存在するのが人類だけだったら?この問いかけは、人類や地球の在り方を問う、非常に奥の深い問題だ。

「地球外生命体が存在しない」という前提が語られない理由の1つには、それが悪魔の証明だからというのもあるだろう。宇宙は途方もなく広大なのだから、宇宙人が存在しないことを証明するために宇宙の隅々まで調査するより、人類が先に絶滅してしまう可能性の方がずっと高い。

だから人類が描く映画では、無意識のうちに宇宙人が存在する前提を選択してしまうし、これからもずっと「宇宙人はいる」と語られ続けるに違いない。

でも、もしも――もしも、宇宙人が存在しなかったとしたら?我々だけがこの無限に広大な宇宙の片隅に「地球ぼっち」で漂っていたとしたら?地球の外に広がるのが、永遠の暗闇と無生物だけであったとしたら?それはなんと虚無だろう。なんと孤独だろう!

また監督が指摘するように、仮に生命がいても、その生物が単細胞生物だったり、あるいは高度過ぎる存在だったりすると、結局コミュニケーションは成立しないことになる。それは「生物」としては、ほとんど存在しないようなものであり、ガスや塵と同じようなものだ。都合良く人類と同程度の知性を持った生命?それはとんでもなく低い確率でしか発生しないようにも思える……

ラストシーンの独白が意味すること

このような孤独についての考えを深めるとき、物語の最初に親しげに自分の肩を揺すってきた相手に対し「僕に触れるな」と内心つぶやき、妻とも疎遠になったロイが、ラストにおいて人間との繋がりを取り戻そうとする理由も理解できるだろう。

結末の語りによって『アド・アストラ』は、宇宙と孤独を巡るヒューマンドラマであることを鮮明にしたと言える(図8)。

図8:最後の独白は、作品テーマの宣言だ(『アド・アストラ』)

結末部分について、監督は「本来入れるつもりはなかった」と語る。ロケットから降りるシーンで終わりにするはずだったのだ。だがラストシーンとしてロイの独白を入れたことで、私はかえって余韻が増して作品テーマも分かりやすくなったと感じる。最後に独白がなければ、『アド・アストラ』はさらに難解な映画になってしまっただろう。

彼が地球に帰還することは、大きな安心感と目覚めを意味する。言い換えればロイの内面の変化と超越だ。冒頭でロイは宇宙飛行士が夢だったと言う。物語を通じてその理由が、父を捜すという目的を果たすためだったと分かる。

だが、こうして彼は地球に戻ってきた。映画製作者としても悪夢のような時間が終わって欲しかった。そして再び地球とつながった。文字通りにも比喩的にもね。

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投稿日時: 2019/12/30 ― 最終更新: 2020/01/06
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