図1:短時間に急激な温度変化に晒された結果、触れた物質へ勝手に擬態してしまうT-1000のボディ(『ターミネーター 2』1991年)

『ターミネーター 2』と言えば、劇場公開版からカットされたシーンを収録した「特別篇」が存在することは、パッケージの名前にも出ていることから有名であろう。「特別篇」にはさらに、エンディング自体を新たに追加した「拡張特別篇」も存在するが、ここでは通常の「特別篇」の最後、T-1000の機能不全とサラへの擬態の失敗について考えたい(図1)。

私は長い間、「特別篇のラストシーンの方が優れている」と考えていた。同じ意見の人は多いと思う。その理由としては以下のようなことを考えていた。

  1. T-1000の機能に異常が生じる設定が面白い
  2. 液体窒素で固まったT-1000を破壊したことが「無駄」ではないことの証明
  3. サラへの擬態を見破った理由が客観的で分かりやすい(足元が床と一体化してしまっている)

簡単に言えば、あのラストシーンはSFとして良く出来ているのである。

しかし、である。『ターミネーター 2』を大人になってからも繰り返し鑑賞するうちに「父性」「人間性」「何が機械と人間を分かつのか」といったテーマが通底していることを理解し、そしてあの印象的なラストシーンを考えてみるに、これはやはり劇場版の方が本作に合っているだろう、という考えに変わっていったのである。

図2:助けを求める偽サラの背後に現れる本物のサラ(『ターミネーター 2』1991年 )

特別篇の決着は「T-1000へのダメージの蓄積が、その機能に弱点を生じた」という展開だ。これはSF的である。一方で劇場公開版は「助けを求める弱々しいサラに、ジョンが違和感を覚えた」ことが強調される(図2)。あえてシーンを削除してまで、劇場公開版で表現されていることは何か。

それは「T-1000は結局、最後まで人間を理解できなかった」ことだろう。

サラは精神病院から脱出した後に、ジョンに言った。「自分のことは自分でなんとかする。おまえは私のために命を危険に晒してはならない」と。また最後にT-1000がサラを串刺しにした際にも「ジョンを呼べ」という要求を無視し、目の前の悪魔に「くたばれ」と叫んだ。

T-1000はこのように、サラを理解するための機会を得ていながら、彼女の性格を再現できなかった。同じことが冒頭の養母に擬態するシーンでも言える。T-1000がどこまで養母を観察する時間があったかは不明だが、少なくとも「警官がジョンのことを訪ねに来る」という事態に遭遇しながら、彼女が平然としていた様子は観ていたはずである。しかしそれでも擬態後、電話口で「子を思う優しい母親」を教科書的に演じてしまい、あっさり正体を見破られてしまった。

T-1000の敗因の1つは、間違いなく人間の、特に親子の愛情に対する理解力不足にある。

これとは対照的に、T-800はジョンとの交流を通じて俗な罵りを覚え、笑顔を学び、最後には涙の理由を知った(図3)。T-800は人間を理解できたのである。そして最後のモノローグでサラが「機械でも生命を理解できたのだから……」と、人類と機械が共存する可能性を示唆して終わる。

図3:「なぜ泣くのか、今は分かる。泣くことはできないが」(『ターミネーター 2』1991年 )

もちろんT-1000の敗因や削除シーンの解釈などは、他にも考えられるだろうが、T2という作品に散りばめられたメッセージやテーマを考えるなら、私としてはこのように解釈したいのだ。

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投稿日時: 2019/07/15 ― 最終更新: 2019/07/16
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