『ソウ』の全体的な感想としては、疑似餌をばら撒いて観客を騙すのが非常に上手い映画だということである。釣り名人の映画と表現してもいい。もちろん褒めている。

ドラマツルギー的に話すと、この映画は起承転結の流れを巧みに偽装している。観客が「これは“結”に繋がる伏線だ」と下手な先読みをすると、直ぐ様その「伏線」を回収して見せて「残念、“承”でした」と言ってみたり、あるいは「こ、これは物語の核心に繋がる重大なファクターに違いない!」と思わせておいて「まあ、このネタはあまり重要じゃないんだけど…」と、あっさりネタばらしをしたりとか、そういった具合である。この映画はこういった「観客との心理戦」の駆け引きがべらぼうに巧い。

だから私のような、理屈っぽく、自分は騙されないと嘯き、常にメタレベルでフィクションを鑑賞して製作者の意図を探ろうとするような不埒な鑑賞者は、何度も推論を空振りさせられて独り相撲を繰り広げ、観客席でのたうち回るハメになるのである。やはり故・淀川長治の「映画を頭で見たら、つまらないね。もっと感覚的に見て欲しい」との箴言は正しいのである。

ネタの出し惜しみがない映画なので、展開は非常にスピーディーで、濃密である。並の映画3本分くらいの密度はあるだろう。密室に閉じ込められた2人の男が、犯人からの指示やヒントを手がかりに脱出する(図1)、というフィクションではありがちな劇場型犯罪に見えるが、ここに被害者同士のデスマッチ要素を盛り込んで緊張感を増し、監禁の裏では犯人解明が進む、という並列進行で謎の供給を途切れさせない。だから振り返ってみると被害者2人は大したアクションを起こしてないにも関わらず、2時間弱があっという間に感じるほど展開は目まぐるしい。最後の瞬間まで観客を欺き続ける展開に、見事にドライブされる感覚は愉快である。

図1:何故か死体のある部屋で、犯人のヒントと真意を読み解くサスペンス

『ソウ』で張り巡らされる「伏線レベル2」

平凡なフィクションにおいて、配置されている伏線は「伏線レベル1」である。これは「劇中で明白に回収される伏線」であり「終わってみれば伏線であることが自明の伏線」である。それは登場人物の思わせぶりな台詞だったり、主人公の見る謎のイメージだったりする。

一方で『ソウ』では「伏線レベル1」を餌にして謎を少しずつ解き明かしながら、その裏で密かに「伏線レベル2」がセットされる。これは言わば「埋められた伏線」であり、鑑賞者が気づかなければエンドロール後も埋まったままになる「自明でない伏線」である。この伏線は、鑑賞者が腑に落ちない点についてWhy?と問わなければ浮かび上がることはない。『ソウ』においては、真犯人の犯行動機や、劇中での些か不可解な出来事が、この「伏線レベル2」を自主的に回収することで説明可能となる。これも映画としては非常に気の利いたスパイスで、鑑賞者自身に謎解きする余地を残してくれている。

というか、私は伏線とは本来こういうものであると思う。脚本家が「べ、別に後付設定じゃないんだから。最初から考えていたんだから、か、勘違いしないでよね!」と先回りして言い訳するための予防線は伏線ではない。

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投稿日時: 2018/09/23 ― 最終更新: 2019/02/26
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