投稿日時:2019/05/06
図1:『96時間』ポスター

お前が誰だか知らん。お前の狙いも。身代金が目的ならカネなどない。だが俺には非常に特殊な能力がある。長年の仕事で身につけた、おまえらを震え上がらせる能力だ。

『96時間』

アクションやサスペンスの映画には、ある絶対の法則がある。それは「子煩悩な主人公から娘をさらった悪漢には、大いなる災が降りかかる」という法則である。愛娘を誘拐したテロリスト集団をシュワルツェネッガーが壊滅させた『コマンドー』(’85)の先例にあるように、映画界の脚本における不文律であり、結婚を目前にして戦争に往くよりよほど危険な死亡フラグである。

さてこの『96時間』、ありきたりのアクション映画かと思いきや、非常に洗練されていて同分野でもトップクラスの完成度を誇る。漫画家の荒木飛呂彦も、好きなサスペンス映画の第3位に本作を挙げているほどである(『荒木飛呂彦の超偏愛!映画の掟』より)。

まず展開が速くて無駄が一切ない。最初の10分で、大富豪に妻と娘を取られた父、継父と自分の経済力の差がそのまま愛情の差となってしまう哀しみ、といった描写が過不足なく描かれる(図2)。

図2:妻と娘の愛情を成金に横取りされた中年の主人公(『96時間』2008年)

観客は主人公のおっさんがあまりに哀れで完全に感情移入してしまう。その状態で発生した愛娘の誘拐事件は、言わば主人公への殺しのライセンスの発行みたいなものであり、そこから発生するクソ誘拐犯どもへのあらゆる逸脱行為(脅し・殺し・拷問)が了解される準備が整う。「必要ならエッフェル塔も壊す」という名言が飛び出すが、本当にやりかねないデタラメな暴走が繰り広げられる(図3)。

図3:『96時間』

主人公ブライアンの魅力は、中年としてのうらぶれた現実と、凄腕エージェントとしてのプロフェッショナリズムのギャップにある。愛娘がまさに誘拐される現場での最後の通話内容は、それを鮮やかに描いている。

「寝室へ。ベッドの下に」
「隠れたわ」
「いいか、よく聞くんだぞ。おまえも捕まる」

『96時間』

それまで散々子煩悩な姿を見せておきながら、ブライアンは「娘がこれから誘拐される」という現実から目を逸らさず、わずかな情報を集めて犯人特定へ乗り出す。この落差が魅力的なのである。ブライアンの中では「暴走」と「冷静」が奇妙に同居している。やることは破天荒なのだが、行動そのものは合理的で極めて分析的な態度を取る(図4)。

図4:誘拐犯を拷問するブライアン(『96時間』)

ブライアンは劇中で常に捨て身である。娘を助けるためなら、自分の命など何でもないと確信している。自分のことなどどうでもいい、ただ娘が無事でさえいれば。その捨て身の美しさと力強さ、そして儚さ。破滅的な振る舞いがそのまま娘への愛情の裏返しとなるブライアンの疾走は、かくも美しい。それは男性の中にある母性の描写である。ジャンルは全く異なるが、息子のためにあらゆる社会的地位を投げ出してしまう『クレイマー、クレイマー』(’79)でのダスティン・ホフマンのような輝きを放つ。

冗長性を排した濃密な90分、溢れる疾走感、次々に飛び出すブライアンの暴走名言。アクション映画に求められる要素を、尽く高いレベルでまとめた作品であると思う。マンガっぽい筋を上質の映画脚本に昇華させる手練は、さすが『レオン』(’94)を撮ったリュック・ベッソンという感じがする。

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