投稿日時:2019/05/05
図1:『狼たちの午後』ポスター

大学に入ってから成り行きで、柄にもないのに30人くらいでの「会議」の司会進行を行わなければならなくなった。それでその「会議」は、案の定実にグダグダで収拾のつかない中学校の自習時間みたいな有様になって、何度議題に注意を戻そうとしても、女子たちはすぐ世間話を始め、男子はスマホを弄り始めた。そもそも本心では誰も「会議」には興味がなかったし、必要性すらなかったのである(開催させたのはひとえに「場の空気」である)。

『狼たちの午後』は、短絡的な銀行強盗が引き起こした混沌の実話を映画化したものであるが、犯人も人質も野次馬も、誰もが思い思いに振る舞い、犯罪現場が制御不能のカオスと化す。その「収拾のつかなさ」の中にも、私の他愛もない学生会議崩壊譚と同種の集団心理を発見できるだろう。

すなわち「集団化による責任意識の分散」「危機感の欠如」が巻き起こす各員の勝手な振る舞いが、場の支配を目論む者が描いた青写真をあっさり便所にでも流してしまい、話が全くデタラメで予測不能な方向へ転がっていく。銀行強盗という大げさな舞台にも関わらず、そこに緻密なプランなど全くなく、あらゆることが場当たり的に進行する。当人たちは人生の瀬戸際で戦っているはずなのに、まるでコメディのような滑稽さが漂う。

図2:仲間がいきなり脱落して始まる強盗計画(『狼たちの午後』, 1975年)

物語はアル・パチーノ演じる「ソニー」が仲間2人と銀行に押し入る場面から始まるのだが、銀行員へ銃を向けることの現実にビビった仲間の1人が「やっぱできない」と、まるでカラオケに来たけど恥ずかしくなって抜けるようなノリで帰宅を果たし、リーダー格のソニーの考えた強盗計画はいきなり瓦解する(図2)。そうして強盗は成り行き任せの籠城戦へと変化し、人質にも舐められて勝手に行動されてしまうソニーは絶体絶命なわけだが、余裕満面でチェックメイトにきたはずの警察も、何故か群衆が犯人をスターのようにもてはやして戸惑ったり、発狂した男が場に乱入してヒヤヒヤしたり、長引く籠城戦でピザを買ったりと、段々意味が分からなくなってくる(図3)。終いには現在で言うところのLGBT団体が、事件を利用して勝手にデモを始める始末で、事態はまさしく「混沌」と呼ぶべき有様となる。

図3:混迷を深める籠城戦(『狼たちの午後』)

このように終始無軌道に低空飛行する、ソニーらのやっつけ強盗事件が弛緩したまま進行するだけなのだが、アル・パチーノの本当に焦りと混乱に陥っているような迫真の演技、集団心理がもたらす場のリアリティ(というか実話の再現性)により、緊張感が皆無にも関わらず不思議と引き込まれてしまう。本当に、こんなに緊張感のないクライム映画は他にないのである。一体監督はどんなマジックを使ったのだろう。

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