『アイ・アム・サム』(’01) / 僕には言葉がない、だからビートルズを引く

図1:『アイ・アム・サム』ポスター

サムには難しいことが分からない。サムは計算が苦手である。人に会うと大げさにハグをして周囲を戸惑わせる。彼は7歳の精神を持った大人である。しかし一人娘のルーシーを愛していて、一生懸命育てようとする。ところが社会からは教育能力なしと判断され、親子は引き離され、サムは弁護士と協力して娘を取り戻すべく戦う。

サムには感情や考えがあっても、それを上手く言語化できない。だから彼は“引用”する。彼が娘への愛の強さを表現するとき、大好きなビートルズのエピソードや歌詞を語る。法廷で検事に反論するときは、親権問題を描いた映画『クレイマー、クレイマー』(’79)を引いてくる。自分で言葉を紡げなくとも、言葉を引いてくることで「同じ気持ちだ」と伝える。娘もビートルズを引用し、父娘の共通言語となっていることが分かる(図2)。

図2:ビートルズの歌詞を通じて想いを表現する父娘(『アイ・アム・サム』)

引用は本作のテーマの1つである。例えば『クレイマー、クレイマー』には3度も言及・引用する。作品全体にビートルズのカヴァー曲が散りばめられ、“Two of Us”などがBGMとして流れる。道路を横断すれば、その様子は自然と『Abbey Road』のジャケットに重なる(図3)。

ビートルズの曲に乗って流れるビジュアルは、実に美しい。それは“Love”を繰り返し叫ぶ、時にナイーブとも取れるビートルズの詩が、サムの無垢性と重なるからだ。

図3:”Abbey Road”へのオマージュ(『アイ・アム・サム』)

利発な娘のルーシーは、7歳のときに父親の知性を追い越してしまう。父親に本を読んでもらう時間は過ぎ去り、サムが読めない言葉をルーシーはスラスラと読み始め、逆に娘が父に本を読み聞かせるようになる。「知性は幸福をもたらすか」「知性が逆転しても人間関係は保てるか」――こうしたテーマは、知的に劣った男の計算のない物事への打ち込みが人生に転機をもたらす『フォレスト・ガンプ』(’94)や、精神遅滞者が手術により天才化する小説『アルジャーノンに花束を』(’59)を想起させる。

『クレイマー、クレイマー』でも本作でも、社会から無視されている要素がある。それは子供の考え、そして当事者たちの現実の結びつきである。法廷では当事者らが「精神遅滞者の父親とその娘」のように記号化され、そこでは個々人が取り持つ特殊な関係性が半ば捨象される。丁々発止の法廷論争は子供の頭越しに飛び交うばかりで、あたかも子の主体性など取るに足らないと主張するかのようである。そうしてどちらの作品でも、争い終えた大人たちが、最後にハッと気が付くのだ。子供が実際に何を見ているのか。

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投稿日時: 2019/04/22 ― 最終更新: 2019/05/05
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