人生がなぜ逆説的なのかは『トッツィー』(’82)が教えてくれた

図1:『トッツィー』ポスター

人生は逆説的だと思いませんか。大成功を目指すと力んで失敗するけど、適当にやるとうまく行く。儲けようと思うと金が減るけど、気楽にやると預金残高が増える。好きな人は離れていくけど、興味ない人にはモテる。

『トッツィー』の主人公、ドーシーは芸術家肌の俳優。仕事では完璧を目指すから、周囲と衝突して上手く行かない。仕事がなくて資金が足りず、同僚が落とされたTVドラマのオーディションをヤケクソで女装して受けたら、現場でのマジギレがウケて受かってしまう(図2)。

図2:女装して監督にキレた結果、採用されるドーシー(『トッツィー』)

ドーシーの行動はことごとく「裏目」に出る。男とのキスシーンを回避するために台本無視して突っぱねれば、人物の機微を表現したアドリブと褒められる。意中の女優には、女装して接すると尊敬されるが、男に戻って接すると飲み物を浴びせられて追っ払われる。仕事を辞めたいと思うと、契約が1年更新される。このように努力と裏腹の結果が次々に舞い降りるコメディになっている。

ところがこの展開、ただの笑えるフィクションと片付けることもできない。そもそも人生が逆説的なのにはちゃんとした理由があると、いつも感じている。

芸術主義には客がいない。拝金主義には中身がない

例えば娯楽分野でより多く儲けるには、一般的には分かりやすく、誰もが関心のある流行の内容にする方がいい。何故ならそっちの方が理解可能な客数が多く、需要が大きいからである。だから歌唱力の高い、詩的で芸術的なシンガーの歌より、AKBの歌の方が売れるわけだ。ところがその道をとことん極めようと思うと、どんどん小難しい方向に行きがちになる。『トッツィー』の主人公はその典型で、俳優としてのスキルはずば抜けていてドラマのレギュラー陣を牽引するほどなのだが、彼は「ホンモノ」だから、作品により深遠なテーマを求めてしまう。そういう小難しいことを追求するからこそ技能が高まるわけだが、そんな高尚なものについてこれる「ホンモノ」のオーディエンスはごくわずかなので、さっぱり儲からない。だから芸術家はいつも空きっ腹を抱えている。

実は同じ話を夏目漱石も述べていて、日記の断片の中で「然るに大多数の読者は趣味が低い。従って趣味の低い者がよく売れる」とまで書いている。まあ、この時漱石は既に『吾輩は猫である』が大いに売れているので、あんたは趣味が低いのかというツッコミも入るが(笑)。

主人公と志を共にする俳優仲間が朗々と語る理想は、まさにドーシーらがなぜ不遇の名優であるかを物語っている(図3)。

図3:理想主義の演説に聞き入る俳優仲間たち(『トッツィー』)

大きな劇場は願い下げだ。90人の客が嵐にめげず来てくれればいい。濡れた服で見てくれる客が本物の観客だ。芝居は雨の日にやるべきだ。

『トッツィー』

なんという志の高さ!(笑)あまりにも高みに上り過ぎて、酸素欠乏症になること必至である。

逆に、最初からガッツリ儲けようとしても中々上手くいかない。何故ならそういう人たちはスキルが足りないから。だから利益の最大点には、ドーシーのような芸術家が徹底した儲け主義に転向した際にこそ到達できる。そういうわけで、彼がプライドを捨てて女装したことにより大ヒットを飛ばすのは、さほど荒唐無稽なストーリーではないと思う。

ダスティン・ホフマンと女性とウーマンリブと

それにしても『トッツィー』ほど、ダスティン・ホフマンにおあつらえ向きの映画もないだろう。何しろドーシー役は背が低くて演技力のある男にしかできない。映画の大半を女装と裏声で貫いたのは、名演というより怪演といった趣だが、女装した俳優を演じるという二重の演技性が面白い(図4)。

図4:2つの性を往復するドーシー(『トッツィー』)

そう言えばダスティン・ホフマンが「女性化」する展開は、シングル・ファザーを演じた前主演作『クレイマー、クレイマー』(’79)から連続している。あの映画は「子育てにおいて、男性が女性に劣るとは限らない」ことを示した物語だった。本作『トッツィー』においても、ドーシーは女優仲間から人生の手本として尊敬されるし、周囲のおっさんは彼にべた惚れである。ついでに赤子の面倒まで見てみせる。やはりこの物語でも「男性の中にある女性性」が肯定されているのだ。

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投稿日時: 2019/04/21 ― 最終更新: 2019/09/14
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