『レオン』(’94) / かつて最強の幼女だったナタリー・ポートマンへ

図1:『レオン』映画ポスター

リュック・ベッソンは不思議な監督である。彼の作品のプロットだけを聞いても、既視感の強い、安手のアクション映画という印象しか持たないことが多い。「凄腕の殺し屋と少女の奇妙な同居生活」を大筋とする本作『レオン』もそうだし、あるいは「人間は脳の10%しか使っていない」とうそぶく、20世紀科学の香り高い『LUCY/ルーシー』(’14)もそうである。「それ、10年くらい前に流行ったよね」と苦笑いされそうな、手垢まみれの筋書きを平然と用いる。

にも関わらず、リュック・ベッソンの作品はまあ、面白いのである。蓋を開けてみると、新しくて美しい映像作品だということがよく分かる。彼のスタイルは、洗練と格調の先端に位置する「フランス映画」というよりは「ハリウッド映画」寄りであり、また「フィルム」というよりは「コミック」的であるが、それぞれの要素を上手く均衡させた調和の下に映像を作っている。

例えば少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)の家族を皆殺しにし、最終的な敵役となるスタンスフィールドは、非常に「コミック」的なキャラクター要素を含んでいる。残虐非道な癖に妙にフレンドリー。殺しの前に天を仰ぎながら身体をクネらせて全身の骨を鳴らす(なんだこの俯瞰視点は?)など、コミカルな奇行を繰り返して強烈な印象を残す。その一方で殺戮をベートーヴェンのメタファーで捉え、ダンスを踏むかのように家宅に侵入し、タクトを振るかの如くショットガンを撃ち放って家族を皆殺しにする(図2)。流れるような映像のリズム。見た目の凄惨さとは裏腹の雄大なメロディ。『レオン』のコミック的な荒唐無稽さと、映像美の洗練は、このように作品の中で融合を果たす。それはあえて表現すれば「バンド・デシネ的な映画」であろう。

図2:演奏の真似事をしながら殺戮するスタンスフィールド(『レオン』より)

嵐の前の静けさは最高だな。ベートーヴェンを思い出す。聞こえるか?大草原の中にいるような葉のざわめきが聞こえてくる。

スタンスフィールド (『レオン』)

主役を演じるジャン・レノは完全なハマリ役で「心優しい暗殺者だが学はない」男であるレオンを完璧に体現。レオンは最強の暴力を備えているにも関わらず、文字もまともに読めず、レストランに着席すればミルクを頼み、植物だけを友に密やかに生きている。一方で家族を殺されレオンの家に転がり込んだマチルダは利発の12歳で、レオンを丸め込み、あまつさえ性的な誘惑を見せもする。つまりレオンは大人の肉体にある種の幼児性が残っているのだが、子供のマチルダはその対称的存在として、彼を補完する存在として描かれる(図3)。

図3:マチルダに銃の使い方を教えるレオン(『レオン』より)

完全に対称的な二人がアシンメトリー・チームのユーモアを生み出すのだが、徐々に互いに同化していき、呼応していく描写が温かい。レオンのトレードマークである丸いサングラスを、マチルダもかける瞬間は、二人の関係の1つのマイルストーンと言え、補完から融合への関係性の変化を思わせる。

二人の関係が融合的に変化することのもう1つの象徴が、作中で描かれる「愛」である。マチルダは、もはや父親とでも呼ぶべき存在のレオンに「愛」を叫ぶ。その感情は恐らく親子愛よりも恋愛感情に近いであろう。一方のレオンも次第にマチルダを愛するが、それは恋愛感情よりも親子愛に近く見える。しかし彼らの「愛」がどのような性質かはハッキリと描かれない。

常に襲撃に備えて椅子で眠っていたレオンを、マチルダがベッドに連れ込んでしまう場面がある。とてもコミック的な作風でありながら、純文学でも遠まわしに描くタブーを堂々と話の中心に持ってきてしまう。この辺のセンスが、まさにリュック・ベッソン作品ということなのだろう。

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投稿日時: 2019/04/17 ― 最終更新: 2019/10/06
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