投稿日時:2019/04/13
図1:『バタフライ・エフェクト』ポスター

小さな蝶の羽ばたきが原因で、最終的には世界の向こう側で台風を発生することがありえる

バタフライ効果について、カオス理論による説明

「過去を変えられたらどうなるか?」は、あまりにありふれたテーマであり、有名な「バタフライ効果」の説明を耳に挟んだことがあれば、タイトルだけでこの映画のおよその内容やテーマが予想できるだろう。そして本作はその予想から大きく逸れるものではない。すなわち、タイムトラベル物の一種であるが、自分にとって「都合が良い」はずの過去改変が、改変の余波により全く予想できなかった波状効果(プラスにしろマイナスにしろ)を生み出し、それに主人公が翻弄される、という筋書きである。バタフライ効果とは「小さな変化がやがて予測不能な大きな変化に繋がる」ことを説明する寓意的表現で、『ドラえもん』世界の悠長な「何やっても未来は大体同じだから気楽にいこうぜ」などというセワシ・セオリ-の対極にある論である。

いくらなんでもタイトルが作品内容を説明し過ぎていたため、逆に興味が失せてしまい、私の中で長らく「後で観る」リストの不動の上位を占めていた作品であった。定型過ぎる設定。ところがドラマの装置が手垢にまみれていることは、この作品を秀作たらしめることを、全く阻害しないのである。

最終的には運任せの人生

ある行為を通じて過去の一点を改変できることを発見した主人公エヴァン(図2)は、それによって過去のトラウマや悲劇を、人生から追放しようとする。しかし、何をどうしても自分の求めていたものを手に入れることができない。改変のたびに別の何かが破綻してしまい、主人公は「もう一度、もう一度」と時間のジャンプを繰り返す。しかしそれはあたかも、自分の描いた絵が気に入らずにどんどん余分な線を継ぎ足したり、塗料を上塗りして別物に書き換えていくかのようであり、次第に歪みが蓄積され、彼の人生はトータルでは破滅の方向へ向かう。

図2:偶然から過去を改変できることを知った大学生のエヴァン(『バタフライ・エフェクト』より)

この物語は、もしエヴァンが身寄りのないストリート・チルドレンとして育ったりした、社会ヒエラルキーの「底辺」に属する不遇な男であったなら、何度かのジャンプによって人生の改善を実感し、幸福のうちにタイムトラベルを封印したかもしれない。何故なら過去の改変というのは、バタフライ効果に基づけば、単なる「人生のダイスの振り直し」に過ぎないからである。プラスではなくリセット。その改変が幸福に繋がるかは、ダイスの目が偶数になるか奇数になるのかと同じくらい、全くの運任せである。乞食から石油王にジョブ・チェンジした結果、自家用ジェットに隕石がぶつかって墜落死しないなどと、誰が言い切れるのか。

そうは言っても、ダイスを振り直す機会は得られるわけだから、最初に低い値を引いてしまった不幸者なら、それ以前より「比較的幸福な人生」を引き当てられる見込みは大きい。しかしエヴァンの人生は、いくつかのトラウマや悲劇を抱えながらも、全体としては「中庸」なのである(人生にとんでもない悲劇が1つもないなら、それは十分「幸運」な方だ)。だから過去の改変を繰り返したところで、トータルの幸福度が微妙に揺れ動くばかりで、結局は多くの不幸と幸福を同時に抱えた人生を歩むことになってしまう(図3)。実際には「過去を改変できる人生」それ自体が1つの大いなる偶然の結果であり、改変を前提とした彼の人生は袋小路へと導かれていく。

図3:過去の改変は、予期しない幸福と不幸を同時に生み出してしまう(『バタフライ・エフェクト』より)

過去の改変とは、他人の人生を歩むようなもの

自分の人生を振り返ってみれば、それが無数にあったifの世界の中から天文学的に低い確率で辿り着いた1つの道程であったことに気がつく。隣の人から消しゴムを借りるとか、たまたま普段と違う定食屋に入るとか、そういう些細なことでいつでも人生は激変し得る。ただ世の中万事は塞翁が馬なので、それが幸か不幸かを知る術はないし、あるいはそれは自分に委ねられているとも言える。だから「あの時xxxをしていれば」なんて考えても意味がない。それは全く人智の及ばぬ領域である。劇場版のエンディングにはそういった思想が感じられる。ありきたりなタイムトラベルの設定でありながら、人生の多様性や複雑性を描けているから、本作は面白い(なおディレクターズカット版は、より救いのないラストである。メッセージ性とエンタメ性では劇場版に軍配が上がるが、父親の系譜が持つ宿命を軸にした血族譚としてはDC版が良く、甲乙つけがたい) 。

バタフライ・エフェクト。過去の分岐点を曲がり直す能力。それはより大きなスケールで考えれば「他人の人生を歩んでみる能力」であるとも言える。主人公は結局、あらゆる「他人の人生」に満足できずに結末を迎えるのだから、他人の人生を羨むことは、全く「隣の芝生は青い」的な、人生の単純視であるという結論ではないだろうか。そして人生の曲がり直しの否定は同時に、あらゆる運命の肯定であるとも言えるだろう。

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