投稿日時:2019/04/07 ― 最終更新:2019/04/13
図1:ドキュメンタリーの主役である、イヌイットのナヌーク(『極北のナヌーク』(極北の怪異)より)

1922年に上映されたこのイヌイットの記録作品(図1)を、現代に数多存在する他の類似ドキュメンタリーを押しのけてまで観る価値があるのか、という身も蓋もない問題の提起をしてみる。「純然たる作品の完成度」という点で考えるなら、答えはノー。色も音もない白黒サイレント映画に、資料性の点で勝ち目はない。

確かにテレビも一般家庭に存在しないあの時代、自分たちの文明から全くかけ離れた場所で原始的な狩猟生活を営むイヌイットの生活様式が、世界に与えたインパクトは凄まじかっただろう。付けっぱなしのテレビから北極の生活を映したバラエティが流れてくる現代とは、まるで環境が異なる。一部のインテリが読む書物の中だけの世界。ピアリーの北極点到達が1909年、アムンセンの南極点到達が1911年。この作品の撮影開始直前の話である。人類にとって、極寒の地とはそれほど文明を寄せ付けない領域だった。その世界が恐らく初めて、映像として一般に公開された。その衝撃たるや、いかほどのものだったか。

『極北のナヌーク』のフィクション性

一方で20世紀後半には、こういった資料映像は成長過程でごく自然にテレビで触れるものとなり、我々の世代の人間が今から『極北のナヌーク』を観ても、当時のような衝撃は受けない。先述したように、単純な資料性で言えばもっと豊かな映像作品は他にある。「20世紀初頭のイヌイットの生活様式は、現代ではもう撮れないじゃないか」という反論があるかもしれないが、そもそも『極北のナヌーク』自体が、既に文明を取り入れ始めていた彼らに、あえて一世代前の生活様式を「演じて」もらった作品である。主役のナヌークも他人が演じたものだし、映し出される家族も本当の家族ではないことが指摘されている(図2)。要するに本作は多分にフィクション的な「再現映像」であるから、時代の特権性というものもあまり持ち合わせていない。

図2:ナヌークは本人ではなく、妻も子供も本当の家族ではない(『極北のナヌーク』より)

にも関わらず『極北のナヌーク』は、極めて興味深い映像資料であり続けている。それはこれが単にイヌイットの原始生活を「再現」した資料であるだけでなく、映画としての長編ドキュメンタリーをいかに撮るかを問うた、最初期の作品でもあるからだ。つまりこの作品は、ドキュメンタリーの先駆者となったために、必然的(そして恐らく無意識的)に「ドキュメンタリー映画のドキュメンタリー」という、二重の資料性を持っているのである。

「フェイク」が豊かな「真実」を映し出す

主役や家族が「フェイク」である、という事実は、当時公になれば大いに観客を落胆させたに違いない。しかしだからといって「本物」「真実」だけに拘って、貧しい映像を残すべきだったろうか。作品は豊かになったのだろうか。ここでの「フェイク」とは、現代で否定的に用いられる「やらせ」という言葉とは、意味合いが根本から異なる。監督のロバート・フラハティは「フェイク」を、あくまで補完的に用いているように見える。それは、逆説的な言い回しになるが、「フェイク」によって映像をより「真実」に近づけるための行為である。

このことが顕著に表れているのが、雪で造られた家「イグルー」で夜をしのぐシーンである。当時の撮影設備では、電気のないイグルーの内部に本当に籠もってしまった場合、光量が不足してまともな映像を残すことができなかった。そのため、イグルーの天井部分を切り取った「セット」を使って内部の様子を撮影したという。「フェイク」が作品を「真実」に接近させたのである。映画監督ファスビンダーも『第三世代』(’79)の中で「映画は1秒間に25回の嘘」「真実は嘘の形で現れる」という台詞を述べさせている。

また他にも、ナヌークが商人の持ってきたレコードを不思議がって噛んでみる、という笑いを誘うシーンが、別の意味で興味深い(図3)。

図3:レコードの仕組みを不思議に思って噛んでみるナヌーク(『極北のナヌーク』より)

この反応も演技であり、既にレコードの存在は当時彼らに知られていたらしいが、恐らく「北極の原住民の原始性」を誇張した方が観客にウケがいいと踏んだ上での監督の演出であろう。メタ的な視点に立てば、ここではそうした監督の意図や観客の反応から「西洋文明の奢り・優越意識」といった、20世紀前半の植民地政策を支えていた思想性を発見することができる。これも1つの「資料」と見なすことができるだろう。

ドキュメンタリーとは何か

ドキュメンタリー(documentary = 資料的な、事実を記録した)の定義は今でも曖昧だし、作品数もフィクションに比べて少なく、地味な分、あまり注目されることがない。ただ最近の私は、アマチュアの本人に再現させたロマ族の貧困実態映画『鉄くず拾いの物語』(’13)とか、クリント・イーストウッドがテロ事件の当事者を主役に据えた『15時17分、パリ行き』(’18)を観て、ドキュメンタリーの可能性について考えている。そうした時に、この分野に初期の方向性を与えた『極北のナヌーク』は、ドキュメンタリーという領域を超えて「映像を観客に見せる、納得させる」という点において、重要な示唆を含んだ作品だと思うのだ。

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こうした資料が今やパブリックドメインとなり、誰でも自由にアクセスできるのは素晴らしいことである。原題は”Nanook of the North”であり、短い英語が字幕挿入されるだけなので、興味があれば動画サイトなどで探してみて欲しい(なお日本でのタイトルは『極北の怪異』とも表される)。

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