投稿日時:2019/04/02 ― 最終更新:2019/07/15
図1:主人公カイル・リースとサラ・コナー(『ターミネーター』)

この映画、既に何度観たのか分からないのだが、プロジェクターを走らせるために廉価になったBlu-Rayを買ってきて、ちょっと試し観……と思っていたら、そのまま全編鑑賞してしまった。シリーズのあらゆる元ネタと語り草が詰まっているので止め時が分からない。低予算をアイディアときめ細かい演技や演出でカバーした、ジェームズ・キャメロンの秀作。

人工知能が反乱を起こした未来の世界から、人間そっくりの殺人機械が、人類の英雄を抹消しにやってくる。ターミネーターは現代の重火器ではほぼ破壊不能な耐久力と高い知能を備えており、誰にもその存在を信じてもらえない中、主人公らはとにかく逃げながら破壊方法を模索せねばならない(図1)。

無感情に追われる恐怖

『ターミネーター』(’84)は追われることの恐怖、追跡され続けることの絶望を、観客が我が身のように感じてしまうスリラーなのだが、敵が主人公を発見するたびに、息が詰まるほど緊迫するのは何故なのか。思うに、そもそも「機械が自分を殺そうとしていること」それ自体が空恐ろしい。それは絶対に交渉の余地がないという戦慄である。 追跡者が人間だったら、寛容とか気まぐれとか、あるいは相手の諦めとか、楽観のシナリオも想定できるのだが、機械が相手ではこれがない。敵の手が届いたが最後、泣いても喚いても命乞いしても100%殺されるという確信がある。だから「追いつかれる=ゲームオーバー」という図式が徹底していて緊張感がある。作中でも主人公が次のように説明する。

「奴には取引も理屈も通用しない。同情も後悔も恐怖もない。絶対にあきらめないんだ。君の死を見届けるまではね」

『ターミネーター』
図2:追跡も、人間としての対話も、全てただの演算として処理して迫ってくる殺人機械(『ターミネーター』)

もう1つは、無感情の存在が感情を持つ人間を殺しに来ることの恐怖。ヒロインが泣き叫びながら逃げ惑う中で何度か「ああ、彼女が命限りに戦っているのに、追う側のこいつはただ演算を繰り返しているだけなんだな」と感じさせる場面がある(図2)。感情のあまりの落差にゾッとする。意思も人生も持たない存在に殺されることほど残酷なことはない。機械の演算処理の過程で、計算の結果として無味乾燥に処刑されるとき、我々の人生すら演算の一因子に矮小化されるかのようである。

人体偽装の不気味さの原点

『ターミネーター 2』(’91)がCGの威力を存分に活かし、激しいアクションと人体変装のスリルを描いたハイテク感漂うSF作品であるのに対し、本作はどちらかというとローテクでスリラーとしての性格が強い。無論、敵マシンのT-800はハイテク兵器なのだが、あくまで1984年の武器を利用して戦うし(未来から完全な無機物は転送できない)低予算という都合もあってアクションシーンもかなり地味。ただそれだけに、人外の存在が人間に擬態して迫ってくる「潜伏型エイリアン」のような恐怖、不死者がいつまでも追ってきて逃げ場のないゾンビ映画のような絶望感は、続編よりも濃く描かれている。作中でも戦闘で生体組織を損傷したT-800は、徐々に自らの肉体を腐敗させ、周囲の人間が異臭に気がつく。ターミネーターが自らに手術を施す「自己修復」シーンのような生々しさは、アクション性を増した続編にはない(図3)。

図3:機械を覆う生体組織は再生しない。眼の損傷を理由にトレードマークのサングラスをかけさせる演出は秀逸。キャメロンは演出と説明を並行して行う(『ターミネーター』)

本作は本当にシュワルツェネッガーのための作品で、彼以外が演じれば恐らく作品の性格まで変わってしまったのではないか。日本のネット民から絶大な支持を受けている単純娯楽アクション『コマンドー』(’85)でもそうなのだが、一言二言ボソッとつぶやくだけで観客に威圧感と説得力を感じさせるのは、彼の骨太な無表情と筋肉の為せる技。これが他の俳優なら実にチープになってしまうと思う。

画作りとしては、明と暗のコントラストを強調する中、青みがかった光に照らされるシーンが多く、それが荒廃した未来で機械から逃げ隠れる光景に何度も重なる。現代の平和なアメリカにいるはずなのに、世界のどこにも逃げ場がなく、まるでサーチライトで追跡されながら、霧中を逃げ回っているかのような焦燥感が漂う。ところどころB級っぽい作りもあるが、それがむしろ低予算から出発した本シリーズの元祖として、独特の味わいを出しているとすら思える。

LINEで送る
Pocket

同じテーマの記事を探す