投稿日時:2018/09/15 ― 最終更新:2019/03/03

伝説の続きを物語る、という曲芸

どのような世界にも、あまりにも完成度が高くて、何か付け加えると蛇足になってしまい、なんびとも手を出し難い伝説的作品が存在する。映画ファンにとってそんな作品の1つがヒッチコックの『サイコ』で、その続編を別の監督が引き継ぐというのは、名誉であると同時にとてつもない災難、いや災害でもあっただろう。

『サイコ』の世界は1つの芸術作品として閉じており、完結している。既に町外れにあるモーテルに潜む恐るべき殺人鬼の正体は判明してしまったし、ラストの余韻は観客の心に残り続けている。

一体どうやって『サイコ』の続編を作るというのか。

リチャード・フランクリン監督が採った手法は「前作『サイコ』の設定を最大限活用する」というものであった。

前作から22年後の世界において、殺人現場の主であったノーマン・ベイツの精神状態は既に回復し、彼は懐かしのモーテルへ戻ってくる(図1)。しかし我が家に踏み込んだ瞬間、またしても死んだ母親の声が聞こえるような気がし、殺人犯が再び徘徊を始める(図2)。ノーマンが犯人ではないかという明らかな誘導をしつつも、他の登場人物たちにも嫌疑をかけて一周させ、終いには全員が怪しく見えてくる。前作のサイコパスが放っていたのは「異常性」だが、今回は「混沌性」がクローズアップされている。

図1:22年ぶりのセットの再現性は抜群

図2:殺人鬼の手口に既視感を覚えるが…

世にも奇妙な食い違い

この物語の実に「サイコな」面白味は、話が各人物に対して食い違った状態で伝達されているのに、食い違ったまま全員が思い思いに納得し、どういうわけか物語が「綺麗に完結してしまう」点にある。

劇中、殺された人物も含めて全員が何か思い違いをしており、全てを正しく概括している人物はいないように思える。誤解を誤解することで双方が納得し合う、歯車の狂ったコミュニケーション。パズルのピースがいくつか、明らかに入れ替わった状態で歪んだ画が出来上がっているのだが、誰もが完成したと思っている、どこか滑稽で、頭のおかしくなりそうな感覚が愉快である。ついでに各人の思惑も見事に一致せず、一致しないまま最後まで生き残ったやつが正義、とでも言うべき謎の「突き抜けた感」がある。一見でたらめに作っているようで、伏線はしっかり張ってあり、全員が犯人であるかのように心理誘導しながら、ラストできっちり収束させて『サイコ』らしい結末に導く手腕は見事。

一方で本作の欠点もやはり『サイコ』の続編であることの宿命から来ていて、前作と全く同じ舞台で繰り広げられる似たような殺人事件には既視感がつきまとう。この続編特有の同窓会的マンネリズムが、物語中盤でのスリルの減退を引き起こしているように思う。他にも「殺人鬼の餌食になるのが割とどうでもいいやつらである」とか、前作にあった殺人シーンにおける緊張感と衝撃、神出鬼没の亡霊が突如出現して襲いかかってくる、あの背筋の凍る恐怖があまりなく、フツーにナイフを振り回してるだけとか、そういった点は残念なところではある。

この作品を私は後年になってからDVDで観たのだが、リアルタイムで2作品を観ていた人にとっては、数十年ぶりのデジャブであったわけだから、マンネリズムはむしろファンサービスとして歓迎されたのかもしれない。全体としては『サイコ』の続編を作るべし、という墜落必至の無謀なミッションに対し、製作者たちの手腕でなんとか胴体着陸させた佳作という感じである。伝説の続きというよりは、一種のスピンオフ的な作品として観た方が楽しめるだろう。

出典

図1,2:『サイコ2』ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン株式会社

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