投稿日時:2019/03/01 ― 最終更新:2019/03/30

大学生の女の子が、車の免許について熱心に語っていたので「東京に住んでいるのに、なんでそんなに免許欲しいの」と聞いたら「海岸までドライブして、みんなで花火をして、その後で気球に乗って日の出を見たいから」という、青春まるごとパックみたいな返答をされたので「多分君はドラマの見過ぎか、Facebookのやり過ぎ」と言って別れた。

ティーンの若者は、いや人はいくつになっても多かれ少なかれ、メディアや物語によって増幅された「青春への憧憬」を抱いて生きているだろう。そこでは「砂浜」とか「純愛」とか「ダンスパーティー」といった青春の記号が大きな意味を持つ。青春の記号は、現実のこの華やかさに欠けて、冗漫で、反復的な日常から飛び立ち、輝かしく他人に羨まれる一瞬間へアクセスするためのガラスの靴である。青春とは限られた数年間に、そういった一瞬間をいかに多くアルバム化できるかの、思春期の闘争なのだ。

図1:田舎道を走るクリスティンと母親(『レディ・バード』予告編, ユニバーサル・ピクチャーズ, 2017年)

主人公クリスティンが「レディ・バード」という、日本で言えばいささか中2的なセンスの自称を繰り返すのも、このような人生の飛翔願望の現れである。クリスティンの実家は父親が失業中で、所帯じみたことしか言わない倹約家の母親が口うるさい、貧しい家庭だ(図1)。そばかす気味な17歳の少女は、カリフォルニアの田舎を飛び出して、もっと都会的な東海岸に行きたいと夢見る。「何かを実現したい」と彼女はつぶやく。

彼女が口にする「バージン」という記号は、格別の神聖さと一体のもので、それを適切な時に適切な相手に捧げることで、人生に永遠の美しい指紋が残るのだと信じている。クリスティンの抱く憧憬はいずれもステレオティピカルなもので、 「初めての恋人」「大きな家」「プロム(高校最後のダンスパーティ)」といったものを無謬の存在と見なしている。

ところが彼女のそういった青春幻想は、高校生活最後の1年間でいずれも打ち砕かれてしまう。神聖だったはずの青春の記号たちの中から、野卑な現実が土足のまま口笛吹きつつヌッと現れ、無遠慮に彼女の憧憬を踏み荒らし、ノシノシどこかへ去ってゆくのだ。クリスティンの憧れはことごとく幻滅に終わる。青春は現実に敗北してしまうのである(図2)。

図2:バージン幻想を打ち砕かれる主人公(『レディ・バード』)

この映画は一般的に「青春映画」に分類されるが、特にアジアの青春ドラマに代表されるような、チープな青春情景のトレースは徹底的に否定する。むしろクリスティンの青春幻想がいずれも破綻に終わることから、安易な感動的結末へ着地しようとする青春映画のアンチテーゼであるとも言えるだろう。

物語の終盤で、彼女は部分的に自分の夢を叶えることに成功する。それは待ち望んでいた、輝かしい生活へのアクセスを許可するチケットであるはずだった。ところが彼女がその夢の地で涙を流し口にするのは、彼女の理想とはかけ離れていたはずだった故郷サクラメントと、貧乏で口うるさい両親のことなのである。

クリスティンの幻想は何もかも打ち砕かれたかもしれない。しかし本当に大切だったものは、そんな勝手に増幅された実態のない幻想や記号ではなく、実際に触れ合い、愛し合える、地に足ついた現実だったのである。そうして彼女は「レディ・バード」の自称を捨てる。唐突に幕を下ろしてしまった後の余韻が、本当に素晴らしい。

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