投稿日時:2019/02/23 ― 最終更新:2019/02/27

彼は宇宙で戦い、いろんな謎を解く。僕らが成長できるよう導いてくれるし、虹の目もある

ブリグズビーベアについて、主人公の語り(『ブリグズビー・ベア』Sony Pictures Classics, 2018年)

忘れられないおじいさんがいる。おじいさんの趣味は、架空の角界で想像上の力士たちが勝負を競う紙相撲を、一人で遊ぶことであった。こぶしで台をドンドン叩いてペーパークラフトの相撲取りが戦う、あの紙相撲である。おじいさんは全ての紙の力士に名前をつけ、勝敗と決まり手を一つと残さずノートに記し、架空の番付に熱中していた。その様子をTVに取材されている最中も、子供のようにニコニコしながら紙相撲を熱心に語り、おばあさんも微笑ましさとドン引きを足して2で割ったようなアンビバレンスの面持ちでおじいさんを見守っていた。

それはTVの、ほんの数分の変わり者特集だったが、おじいさんの熱中の純粋さに圧倒された。外界から完全に隔絶された自分の宇宙に没頭する幸福。『ブリグズビー・ベア』の主人公も、このような他者不在の宇宙に没頭する主人公の話である。

他人と共有されない虚構

生まれた直後に誘拐された主人公ジェームスは、偽の両親が自主制作した『ブリグズビー・ベア』という架空のTVシリーズ――全736話にも及び、オリジナルグッズすら存在する――に熱中して育ち、本当の両親の家に帰ってきた後も『ブリグズビー・ベア』が忘れられない(図1)。

図1:作中作『ブリグズビー・ベア』は、ジェームスの教育と娯楽を両立するために作られた児童向け作品(『ブリグズビー・ベア』より)

彼はこの作品が広く愛されていると信じていたが、実は純粋な視聴者はこの宇宙に彼唯一人で、ネットのファン友達も、彼の熱心なブリグズ研究へのコメントの数々も、全て偽両親によるフェイクであった。救出された直後に、彼の唯一にして最大の趣味の実体が「孤島での一人遊び」にも近かったことが暴露されてしまう。

ジェームスはその後、偽両親に代わって物語を完結させるべく自主制作を始めるのだが、これに対立するのが実の父親とカウンセラーである。彼らにしてみれば、このTVシリーズはジェームスを虚構の暮らしに閉じ込めるために生み出された一種の洗脳装置であり(図2)、偽両親が柵の向こうにいる今、その物語はもはやジェームス個人の空想に限りなく近い。その空想に固執する彼は、社会から見れば、虚構の暮らしに囚われた不適合者に映る。ついに父親らは彼を「更生」するために過剰な対応にまで及んでしまう。

図2:ブリグズビー・ベアのビデオとグッズに満ちた部屋で「毒で満たされた」外の世界を眺める主人公(『ブリグズビー・ベア』より)

虚構から「卒業」することが「成長」なのか?

一般的な話の筋としては、作られた虚構の世界から「脱出」して現実世界と関わっていくことが「成長」あるいは「進歩」であると見なされ、主人公の最終ゴールとなり、敵対者たちは逆に仮初めの世界へ脱獄者を封じ込めようとする(『マトリックス』しかり『トゥルーマン・ショー』しかり)。ところが本作の構図はそこから反転していて、虚構へ向かう主人公を周囲が引っ張り出そうとする。果たして主人公の人生は、負の方向へ逆走しているのだろうか?

虚構は嘘であり、欺瞞であり、逃避であり、従って現実より程度が低い――私には子供のときから空想癖があって、幼児の頃から30代になっても、毎日必ず空想に耽る時間がある。自分ではそれを豊かな時間だと思っているが、このような時間の空費から「卒業」すべきだと啓蒙する人は後を絶たない。

だが他人の放つ「卒業」という言葉は、いつも企みを抱いているように見える。そこには「低次のものから離れて、より高次へ向かう」という、勝手の価値観が潜んではいないか。しかし「卒業」した先にある社会とか人間関係といったものもまた、共同幻想に他ならない。社会により積極的に関わって、高い給与と地位を手にして成功を収める、というのも1つの虚構である。社会への参与がより「高次」であると一般的に見做されるのは、単にその人々がより巨大な権力を手にしているからだ。

本質的にはこの宇宙は、目的を持たない物質世界が運動しているに過ぎないので、そこで紡ぎ出されるあらゆる世界観は虚構であると言える。人生とは畢竟、壮大なる空想に過ぎない。だから虚構を脱出した先にも、本来的には虚構しかないのだ。これは言い換えると、何を現実で価値あるものと見なすかは、本人の認識次第ということである。であるならば、何が現実であるかを定義する基準は、本人の幸福観によって定まるのではないか。

図3:大量の絵コンテの前で作品構想を生き生きと語るジェームス(『ブリグズビー・ベア』より)

シャバで『ブリグズビー・ベア』を知るのはジェームス一人だったかもしれない。しかし『ブリグズビー・ベア』は間違いなく彼に生きる喜びを与えてくれる「現実」であり、幸福の源泉である(図3)。少なくとも父親が勝手に作った「息子とやってみたいことリスト」などより、遥かに彼の人生に近い位置にあり、それどころか人生そのものとすら言えるだろう。それが他人にとっても現実であるかは、大した問題ではない。 冒頭で書いたおじいさんにとっても「空想相撲番付」は、他のもっと社交的な遊びより、彼の宇宙で「現実」的なものだろう。

物語はその後、次々に自主制作に関わる者が増えていき、協力して『ブリグズビー・ベア』の完結編を作り出す方向へと動いていく。ジェームスの空想は現実に上座を譲るどころか、むしろ現実を飲み込み、書き換えていく。この映画は、勇気を与えてくれる作品。あなたが心から信じるものこそが、あなたにとっての「現実」であり、それはかけがえのないものなのだと。

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