「クネゴンダが126回も犯されたなんて」
「7だ」
「127回も」

『ヤコペッティの大残酷』DVD, スティングレイ, 2014年

原作である『カンディード』は、破綻の物語である。

この世の悪すらも神の計画の一部であり、人間の理解を超えて全てが最善に向かっているのだという、ライプニッツらキリスト教徒の「最善説」を徹底風刺するため、かの物語は最善説を信奉する登場人物らが、これでもかというくらい地獄の刑罰を繰り返し受ける、滑稽の悲劇と化した。登場人物らは何度も殺され、犯されながらも、しかしふざけた理由によってしれっと復活しては再び拷問を受けるという、物語の論理やリアリティを放棄した構成によって、「最善説」のナンセンスさを完膚なきまでに愚弄してみせたのである(図1)。

図1:ヴォルテール(左)と、彼が18世紀半ばに著した『カンディード』(右)

この神をも恐れぬ風刺小説を映像作品として、200余年の時を超えて復活させたのが、破天荒監督ヤコペッティであるが、破綻した物語をどのように映像化するかが問題であった。すなわち『カンディード』の映画版は、原作者ヴォルテールが暴こうとした最善説の欺瞞を、人間精神に底流する堕落の本質を、それらを茶化した破綻の物語を、視覚的に表現してみせねばならない。

『ヤコペッティの大残酷』はかくして、ぶっ飛んだ作品になった。この作品は、物語の筋が破綻していることはもちろん、登場人物の台詞とその行動までが堂々と矛盾をきたし、聖者が徳目を唱えながら姦淫し、恋人が愛を唄いながら不貞をはたらき、反転した世界で皆が逆立ちをしている。そこに尋常の様態など1つもない。

例えば「全ての結果には原因があり、それらは最善に繋がっている」と最善説を大声で喧伝する哲学者、パングロスの間抜けっぷりは原作同様だが、映画版では「膨大な数のブタが存在するのは、食べられるためであり、だから人は食べる」「胃は満たすためにあり、空にしてはならない」と、滅茶苦茶な屁理屈で最善説を乱用しながら、酒池肉林の大食堂で飽食に耽けている。穴の空いた大木を利用して、顔を醜く歪ませながら侍女とセックスしつつ「パングロスは木を使うために作られた!」と絶叫する(図2)。

図2: “木が作られたのは農園の娘が寄りかかるため。パングロスは木を使うために作られた ”(『ヤコペッティの大残酷』)

パングロスだけではない。主人公カンディードの恋人であるクネゴンダは、主人公と悲劇的な別れの後に運命の再会を果たすが、そのときに流れる彼女の回想「裁縫をしながらあなたを思っていた」のシーンでの実際の彼女は、化粧品や娯楽に囲まれた部屋で狂ったようにダンスを踊っている。そして自分たちの城を侵略しにきた屈強な男に飛び付いて、自ら進んでレイプを受け入れる。恩師や恋人の、いや邂逅する全ての人間の狂騒の本性を目の当たりにし、純粋無垢だったカンディードは次第に最善説を疑い、放棄する道へ進む。

ここで成されていることはなにか。ヤコペッティは人物の本音と建前を常に同時にスクリーンに収めることによって、人の持つ欺瞞性や自家撞着を風刺的に映像化した。その世界では、全ての者が道化であり、聖者であり、同時に悪人でもある。

登場人物の吐く論理と言動もデタラメなら、物語も負けずにデタラメだ。原作の序章の部分は割と忠実に映像化してみせるが、その時点で既に映画の尺の半分を消費してしまい、後半部分は、船旅をしていたらなぜか現代のアメリカに上陸してしまったりとか、そこで死んだはずの哲学者パングロスがTVディレクターとして復活していたりとか、完全に支離滅裂となっている(図3) 。まるで夢の中の出来事のように前後関係や時間軸がシッチャカメッチャカな有様で、整合性などというものはどこを探しても見つからない。

図3:死んだパングロスが当然のように復活しているのを不思議がるカンディード。本人もいつの間にか現代アメリカで現代人の格好をしている(『ヤコペッティの大残酷』)

「でも絞首台で…」
「(略)絞首台の担当はずぶの素人でな、私を吊り損ねたんだ」

『ヤコペッティの大残酷』

ことほどさように『ヤコペッティの大残酷』は映像の強みを活かし、劇中の言動や時空を分離させ、破綻させていく。このフィルムの中にまともなシーンなど1秒も存在せず、開幕からスタッフロールまで、常にネジが外れたような精神異常的光景を途切れなく続けさせ、最善説の虚無性を暴き尽くす。

物語は終盤になって、まるで悪夢から目でも覚ましたかのように、唐突に哲学的問答やモノローグを挿入して幕を閉じる。そこで語られるのはこの世の不条理、すなわち人倫や道徳に対して無関心なこの不気味なる宇宙のことであり、そんなところに人間の都合や願望で「最善説」などという妄想を持ち込んでみても、宇宙はそれをあっさり無視してただ運動を続けるということであった。最後に出てくる「意味のないオブジェを作り続ける人たち」は象徴的だ。本作は、答えのない問いの前に空転を続ける人類を描いた不条理劇なのだ。

「人間という妙な動物はなぜ存在するんです?」
「そんなこと、お前が知る必要はない」
「この世は邪悪過ぎます」
「善悪を気にするなど、お前のやるべきことか。頭がかゆいとき、お前は平気でノミを殺すだろ」
「何をすればいいんです」
「黙って頭をかけ」

『ヤコペッティの大残酷』

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投稿日時: 2019/02/16 ― 最終更新: 2019/04/09
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