『ロープ』(’48) / 重要なのはワンカット撮影ではない

2022/01/14 ・ 映画 ・ By 秋山俊

二人の男が「芸術」と称して友人の首をロープで絞め、死体をチェストの中に隠してしまった。殺す理由など全くない、殺人のための殺人だったのだ。そしてまもなく、その部屋にはなにも知らぬ友人たちを招いてのパーティが開かれる。完全犯罪の祝祭となるパーティが……

殺人は芸術にもなる。破壊と創造の力は同じくらい素晴らしいんだよ。[…] さっきの殺人は完璧だったな。まさに完全犯罪だ。俺たちは人生に波乱を起こすため、そして殺人のために殺人を犯した。俺たちは生きている。まさにいま、輝かしく生きているぞ。

Well, murder can be an art, too. The power to kill can be just as satisfying as the power to create. […] It was perfect. An immaculate murder. We’ve killed for the sake of danger and for the sake of killing. We’re alive, truly and wonderfully alive.

『ロープ』1948年
冒頭でいきなり友人の一人を絞め殺す犯人たち / 『ロープ』(’48)

しかし考えてみれば、「殺すなかれ」という法がなければ「殺人のための殺人」などという発想も出てこないわけで、この無法者にして芸術家の主人公は案外、法律の子供と呼ぶことができるのかもしれない。それはさておき……

『ロープ』は全編を通してこの「死体が入ったチェストの上に食器が並べられ、客たちがそれを知らないまま饗宴が繰り広げられる」という異常状況下に進行する。愉快型もしくは劇場型犯人による「ゲーム」を観察する映画なのだが、犯人の、殺人の発覚を恐れる心が、周囲の人間の注意をはぐらかすどころか、むしろ犯行のヒントを指し示してしまう。たとえばパーティの何気ない会話での「〆る」という言葉への過剰反応などがそれである。不安定になった男は、次第に神経症的になり、ヒステリックになっていく。

「でたらめだ!その話は真っ赤な嘘だよ!今まで鶏を絞め殺したことなんてないんだから!」

That’s a lie! There isn’t a word of truth in the whole story. I never strangled a chicken in my life.

『ロープ』

「隠し場所が気になってジロジロ見てしまう」「秘密を無性に話したくなってしまう」といったことが現実にあるように、人間というのは元来が、思考を表現せずにはいられない生物である。これは人間が社会的な生物であることを考えればむしろ当然の話で、人間は不安だったら「不安である」というサインを群れに積極的に伝えて、危機を共有できるように進化している。人類の悲劇の1つは、プライバシーや秘密の保守性を求められる社会へと急激に進歩したにも関わらず、情報を共有したがる本能を残してしまっている点にある。

本作ではパーティの軽妙な会話を通して、間接的に、催眠術的夢遊病的に、犯人自ら半ば自供するかのように「探偵」をリードする形になってしまう点が、人間心理の矛盾や自己破滅性を巧みに誇張している。この点で、単なる頭脳ゲームと思いきや、なかなかどうして味わい深い。『ロープ』は心理学なのである。

死体を納めたチェストの上に燭台を置き、饗宴が始まる / 『ロープ』(’48)

「破滅を回避しようとした結果、かえって破滅する」という悲劇性は『めまい』にも共通するが、『ロープ』の犯人らはなにしろ愉快犯なので、むしろ喜劇的であり、ツマミを食べながら安寧にショーを楽しめるというものだ。

ワンカットの意義はあるか

映画史的な観点から見ると、本作の眼目はもっぱら「全編(疑似)ワンカット撮影」という演劇的スタイルの導入にあるのだが、私はそこに特別な興味を惹かれない。ワンカットの必然性がない。実際、カットを割っても大して印象が変わらないであろう。

黒沢清監督や、あるいは作家の伊藤計劃が指摘したように、ワンカットの演出的意図は、「それは実際に起こっている」という、映画の「目撃の真実性」「現実との同期性」を高めることにある(カットで同期を切らない)のだが、『ロープ』で被害者が首にロープを巻かれて死ぬ事態は「既に起こってしまった」後だからである。

もちろん単なる企画・宣伝としての戦略、あるいは「ワンカットで観られるから、スゴイ」という曲芸的効果はあるが、それは映画の骨格とは関係ないところにある。

したがってこれは実験のための実験、手法のための手法という印象がどうも強く、当の監督すら「ワンカットにした理由が自分でもよくわからない」と言っているから身も蓋もない。

この映画のことを考えてみると、なぜあんな綱渡りみたいな芸当をやろうとしたのか、自分でもよくわからない。[…] わたしは、一本の映画をまるまるワン・カットで撮ってしまうという、じつにばかげたことを思いついた。いまふりかえって考えてみると、ますます、無意味な狂ったアイデアだったという気がしてくるね。というのも、あのようなワン・カット撮影を強行するということは、とりもなおさず、ストーリーを真に視覚的に語る秘訣はカット割りとモンタージュにこそあるというわたし自身の方法論を否定することにほかならなかったからなんだよ。

ヒッチコック、トリュフォー
『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』
山田 宏一 (訳), 蓮實 重彦 (訳), 晶文社, 1990年
『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』

ここでヒッチコックが語っているように、全編ワンカット撮影は必然的に、映画の基礎的な演出手法であるモンタージュを自ら禁じる自縄自縛的な映画を生み出してしまう。『ロープ』が全体的に構成の薄い平面的な映画と感じるのは、モンタージュが封じられているからである。

ヒッチコックの記憶

個人的な記憶を掘り起こすと、本作は私にとっての初めてのヒッチコック体験であった。TVのヒッチコック特集かなにかで放送していて、小学生だった私はなんにも知らないから、「ヒッチコックはサスペンスの神様なのよ」と母親に聞かされ、サスペンスという単語もそのとき初めて知った。ワンカット撮影ということにも気づかなかった。気づいたのは大人になってからである。

それよりも私の頭に焼き付いたのは、映画の冒頭でいきなり人が殺され犯人が犯行を語りだすという、現在では常識となった「ヒキ」の強さである。この電光のような脚本の速度と、死体の真上で饗宴を繰り広げるという、常に崖っぷちに立たせて観客を安心させないスタイルこそが、ヒッチコックの独創であった。

「天才」を自称する犯人は余裕を演出するが、もう一人の臆病な犯人が挙動不審になり…… / 『ロープ』(’48)

「死体の上での食事」というのは、ヒッチコックの有名な「爆弾」理論の典型といえる。つまり「突然爆弾を爆発させて観客を一度だけびっくりさせるより、爆弾があることを告げた上で登場人物だけ知らないようにすれば、スリルがずっと持続する」というサスペンス理論を自ら実践している。この理論は、後にカーペンターの『ハロウィン』や、スピルバーグの『ジョーズ』など、数え切れないほどの映画の中で模倣され尽くされている。

それに加えて『ロープ』の妙味は、来客たちが、被害者の詰まった棺桶の真横で彼の心配をし、その死体の真上で肉をむさぼり、ワインを飲みつつ軽妙な会話を繰り広げているという退廃的・サド的な「趣味の悪さ」にある。パーティの洒脱な会話の中では「優れた人間は劣った人間を殺してもよい」というラスコーリニコフ的な論理も顔を出す。

「そういうわけで、殺人を犯す特権は少数の優秀な個人に委ねられるべきなのだ」

「そして犠牲者は、無意味な人生を生きている劣等種であるべき、だね」

“As such, the privileage of committing it should be reserved for those few who are really superior individuals.”

“And the victims, inferior beings whose lives are unimportant anyway.”

『ロープ』

それだけなら非倫理的な作品になりかねないのだが、殺人を芸術と称する犯人たちの道化的性格によって、不道徳は単なるジョークになってしまい、全体としては西海岸的な、カラッとしたサスペンスに落ちついている。ヒッチコックは哲学の上を歩かない。

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初版:2022/01/14 ―― 改訂: 2022/01/16

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