『ハロウィン』(’78) / ブギーマンが殺らねばだれが殺る

2021/10/31 ・ 映画 ・ By 秋山俊

ジョン・カーペンターとは何だ?――アメリカの映画精神そのもの。

カーペンター映画とは何だ?――映画の遺伝子 “ミーム”。

カーペンターは何を達成した?――チープで、ありふれていて、そして決定的な何かを。

貴様らが殺らないから、ブギーマンが殺らねばならんのだ

『ハロウィン』は間違いなく、カーペンター監督にとって、商業的にも批評的にも最大の成功を収めた作品なのだが、現在において同監督はもっぱら『遊星からの物体X』もしくは『ゼイリブ』の人として語られることが多い。

理由は簡単で、『ハロウィン』を娯楽作品としてよりシェイプアップした『13日の金曜日』が『ハロウィン』を“過去”のものにしてしまったからだ。『遊星~』と『ゼイリブ』は今でも“現在”の作品として語ることが可能だが、『ハロウィン』は現在時制で語ると、いささか「古い」という印象は拭えない。

しかしアメリカ映画を観る人間は今でも、誰しもが、空前のスラッシャー映画(殺人鬼映画)ブームを巻き起こし、モダン・ホラーの不文律、すなわち「いちゃつくアベックは必ず死ぬ」「最後に生き残ったファイナルガールが犯人と対決する」などの掟を不動のものとし墓石に刻み込んだ、あの『ハロウィン』の遺伝子から自由ではいられないのだ。

図1:淫らな男女は必ず殺人犯に抹殺される、スラッシャー映画鉄の掟(『ハロウィン』)

『ハロウィン』は、以降のスラッシャー映画が備えることになる演出スタイルをすべて持ち合わせている。すなわち、殺人鬼の一人称視点による犯行シーン、死体のびっくり箱、犯人の超人性、祝祭日にちなんだ犯人像、などである。本当に革新的なスラッシャー映画は『ハロウィン』と、スラッシャー映画に自意識を持ち込んだ『スクリーム』しかない。

『ハロウィン』とは何か

ヤツが解き放たれてしまった!悪魔が解き放たれた!

He’s gone from here! The evil is gone!

『ハロウィン』(’78)、以下同様

幼少時に家族を惨殺して以来15年間封印されていた男、マイケル・マイヤーズが嵐の日に突如として脱走を図り、自分の生まれ故郷に舞い戻る。マイケルはその殺人動機も、何を考えているのかも全く不明。15年間、ただ壁をじっと見つめることで過ごしてきた。そして今マイケルは、かつての自分の生家の近くに住んでいる女学生たちを執拗に付け回し始める。奇しくも時期はハロウィンであり、子供たちは不死身の怪人「ブギーマン」についての噂をするのであった――

図2:主人公らを監視し追いかけ回すブギーマン(『ハロウィン』)

カーペンター映画の例にもれず、本作も過去の名作、すなわち『サイコ』を基底部に引用することで成り立っている。『サイコ』のヒロインを演じたジャネット・リーの娘が本作のヒロインであることは偶然ではない。加えて冒頭の殺人犯視点による長回しはオーソン・ウェルズの『黒い罠』を、虐げられた奥手の処女が最後に覚醒し放埒な娘は無残に惨殺されるのは『キャリー』を、不死身男が何度も立ち上がるのは『ウエストワールド』を、それぞれ思わせる。

つまりそういった過去作の達成を踏まえた上で、歴史的現在として撮る来たるべき映画にどのような付加価値を与えるか、という点こそがカーペンターの批評性であり持ち味なのだ。

しかしこのような引用元のタイトルをズラズラ並べて、やれ、「ここはあの映画のあのシーンから来てるのだなぁ」などと一々指摘してはソファーの上で飛び跳ねているのは、映画マニアの空虚なペダントリーであり、教養主義の見苦しい残滓に過ぎない。そのような瞬間、となりにいる純粋な鑑賞者は必ず辟易しているのだ。

私が大学在籍中にやってきた、とある映画史講義の非常勤講師も全くこの手の無様なオタクの標本的人物であり、彼の虚栄心を満たすためのクイズ大会と化した授業に15分で見切りをつけ、私は授業を放擲してしまったものだ。私は桜を殺した長雨のあとの、湿気に満ちたあの教室の臭気を思い出すだけで鼻がつんとする。

図3:ナイフを逆手に持って突き刺すのは『サイコ』からの引用(『ハロウィン』)

だからここでは、「オーソン・ウェルズの冒頭の長回し及びその模倣は、しばしば長回しそれ自体が自己目的化しているきらいがなくはないが、『ハロウィン』の長回しは、殺人犯の一人称視点をカットせず、連続性を保ったまま回し続けるための長回しという必然性を持っていると同時に、視点の持ち主の正体が徐々に開示されるサスペンス性もあり、ウェルズの引用であると同時に、監督一流のショットに対する批評が冴え渡っている」とか、そういうことは書かないでおこう。我が青き蝋燭に誓って、私はその手の言説をするにやぶさかなのだ。そういうのは他の誰かがきっと書いていてくれているだろう。

悪の系譜としてのブギーマン

私が『ハロウィン』の現代的批評として注目すべきと考えるのは、ブギーマンの「悪」としての「空洞性」である。ブギーマンの悪としてのポジションは、おそらく「トラウマが生み出す精神異常者」としての悪の代表格である『サイコ』の犯人と、「空虚、あるいは時代精神の体現者」としての悪である『セブン』や『ダークナイト』の犯罪者の間に位置する。

ブギーマンには目的がない――というか、そもそもそういうものが存在するのか知りようがない。彼は自分以外の世界と完全に没交渉なのである。ブギーマンを追跡するルーミス医師の以下のくだりは、ブギーマンの本質を的確に示している。

図4:ブギーマンを追い続ける本作の狂言回し、ルーミス医師(『ハロウィン』)

オレはやつに会った、15年前のことだ。ヤツには何もありゃしないと聞かされたさ。無目的、無道徳、無理解。生と死、善と悪、正しさと過ち、そういったことに対する原始的な感覚すらない。オレが会った当時6歳のガキが備えてたのは、うつろで、青白く、無感情の顔と、どこまでも深い暗黒の瞳……「悪魔の眼」さ。ヤツの正体に近づこうと8年費やした。そしてその後の7年は、もっぱらヤツを閉じ込め続けるのに費やした。気づいちまったからだよ。あの瞳の奥に潜んでいるのは、純粋にして単純な「悪」だとな。

I met him, fifteen years ago. I was told there was nothing left. No reason, no conscience, no understanding; even the most rudimentary sense of life or death, good or evil, right or wrong. I met this six-year-old child, with this blank, pale, emotionless face and, the blackest eyes… the devil’s eyes. I spent eight years trying to reach him, and then another seven trying to keep him locked up because I realized what was living behind that boy’s eyes was purely and simply… evil.

フロイトやユングに始まる近代の精神分析は、人間の無意識を「発見」し、様々な精神異常がトラウマに由来することを「突き止めた」。だから『サイコ』の犯人は母親に対するトラウマに従って犯罪を繰り返すのだ。

しかし誰かが言った。本当は何もないのではないか、と。

そういう分かりやすく明解な説明は、実際には後付けで、闇とは、悪とは、「巨大ながらんどう」ではないか。

平凡な脚本なら、ブギーマンの犯罪動機は十中八九、冒頭の「姉とボーイフレンドの関係を見たトラウマ」で説明される。だがその説明は上述のセリフによって早々に放棄され、有耶無耶にされてしまう。物語のステレオタイプに「茶々」を入れずにはいられない――私はそこが、この監督の批評性だと思う。

ストーカー映画としての『ハロウィン』

最初に書いたが、この映画は今見るとスタイル的に少し古い。特に意図的にカットを切るタイミングを遅らせた「遅延」の技法で伸ばされた映画の時間が、間延びしたように感じるだろう。

具体的に言えば、主人公らが並木道をお喋りして去っていく場面などで、「ここでカットして次の場面に移るだろう」という典型的なタイミングがあるはずなのだが、カーペンターはそこでカットせずに延々と去りゆく人物を映し続ける。

恐らく『ハロウィン』は、映画全体に、主人公らを監視しストーキングするブギーマンの主観的な時間が流れている。

つまり、テンポよくカットが切り替わるのは客観的な時間のリズムである。他方で、去っていく人物を遠くから延々と眺め続けるのはブギーマンの主観的なリズムである。観客はほとんどの場面で「主人公たちを監視するブギーマン」の視点に同化して映画を観る。そういう点で、本作は「一人称視点のストーカー映画」だと言っていい。

『13日の金曜日』以降のスラッシャー映画は、『ハロウィン』の商業的な要素を抽出して倍加しているため、このような「タルい」リズムがない。鳥類の祖先と現生の鳥たちが似て非なるもののように、元祖とフォロワーの性質は異なる。極端なことを言えば、ブギーマンの眺める「風景」を愉しむ映画。それが『ハロウィン』なのである。

満足度:9/10

4K UHD BD (北米盤) レビュー

70年代作品のUHD BDとしては非常に良くできている。現在における『ハロウィン』鑑賞の決定版。

Blu-rayとは全体の雰囲気が全く異なる。彩度はかなり抑えられている。BDだとハドンフィールドに訪れた秋の、赤や緑といった色彩が強く出ているのだが、UHD BDだと灰色がかった弱いセピアのような印象を受ける。この雰囲気が全体の不安げなトーンにマッチしていて良い。

HDRの効力が最大に発揮されるのが、後半の夜の場面である。レンジの狭いSDRを採用するBDだと、暗部の黒つぶれを防ぐために最低光量を底上げして全体を明るめに作らねばならないので、場面としてはほぼ真っ暗なはずなのに、照明に照らされているように見えるのが欠点であった。ところがUHD BDはどうだろう。外から漏れる薄明かりに照らされた人物だけが浮かび上がり、それ以外の場面はブギーマンの瞳のように暗く沈んでいる。

『ザ・フォッグ』のUHD BDにおいては、一部、あまりにも暗くなりすぎて、登場人物が何をやっているのかわからなくなるような場面も見受けられたが、『ハロウィン』ではそういう極端な場面もなく、バランスが良い。

サウンドもDolby TrueHD 7.1chと、70年代の低予算映画にしては随分と豪華な仕様である(Atmosではない)。もちろん全体としてアップミックスは控えめだが、補助的なサラウンドが雷雨の臨場感などを高めてくれるので、十分な品質である。

(ヘッダー画像:『ハロウィン』海外ポスター)

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初版:2021/10/31 ―― 改訂: 2021/11/07

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