『ミッドサマー』に見る文化衝突と理解不能性【ラジオ】

2021/02/20 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『ミッドサマー』A24, 2019年

この映画が公開された年の中では、最恐のホラーだと思います。今一番注目度が高い映画監督の作品。

この『ミッドサマー』のスゴいところは何かって言うと、「非常に美しいホラー映画」という、一見矛盾した要素が、すごく高いレベルで共存している、ってことなんですよ。

『ミッドサマー』あらすじ

あらすじをざっと話すと、舞台になるのがスウェーデンの小さな村で、そこにアメリカの大学生たちが遊びにやってきて、そこは一見、メチャクチャ美しい村なんですよ。もう天国かってくらい。北欧って清廉なイメージがあるじゃないですか、実際。

その村の名前がホルガ村っていうんですけど、白い衣を来た男女が皆で輪を作って、花の中で踊ったりしているわけです。やってきたアメリカの大学生たちは「地上の楽園かよ」って思ってる。けど、生活をしている内に、「ここは何かおかしいぞ」ってことが発覚してくるんですよ。実際に一緒に来た人たちがいつの間にか蒸発していたりして。でも相変わらず周囲は天国に見えるし、村の人はみんな良い人にしか見えない。でも徐々に、この村の正体というのが見えてきて、最後の最後に一気に「こんなヤバいことになってたの?」というのがすべて分かるという、映画なんですけど。

『ミッドサマー』

美しくて明るいホラー映画

内容は怖い映画なのに、表面的な映像は一貫して透明で美しくて。純粋に映像作品としての完成度が高いですよ。空気が澄み渡っていて、北欧の自然がいっぱいあって、女たちがお花の冠かぶって踊ってて、その隣に死体がプ~ン……みたいな、あっ死体って言っちゃった。まあいいや。そんなイメージですね。

今回の話は全体的にボカし気味に語りますけど、この映画での「敵」というものが、一体主人公になにをするのか、というのを、観てない人には是非今回の話から想像しながら聞いてもらって、それから映画観て答え合わせしてほしいですね。

『ミッドサマー』

あとこの映画のホラーらしくない特徴がもう1つあって。他の一般的なホラーだと絶対に有り得ない、セオリーの真逆をやってるんですよ。スクリーンショット見ていて気づいた人もいるかもしれないんですけど、それは「昼間しか映さないホラー」ってことなんです。スウェーデンって緯度が高いから白夜、つまり夜が訪れない時期があって、『ミッドサマー』はちょうどその時期を舞台にしている。

それでどういう面白さが生まれるのか?っていうと、明るいから残酷な物がクッキリハッキリ映ってしまう。後で少し話しますけど、死体とかをむしろ残酷芸術のように飾り立てるところもあって、一種の芸術品に仕立てちゃうんですね。

さらに言えば、昼間ってことは平常感覚、つまり「今って平和じゃん?」ってのが強調されているんですけど、この映画って、旅人にとっては異常で残酷なことが起こるのに、村人にはそういう感覚がなくて平然としてる、っていう、不気味さがキーになるから、昼間という安心できるはずの時間帯に事件を進行させることで、より「この村では当たり前のように異常が進行する」というのが強調されてるわけです。逆に夜で暗いと、ある意味、異常なことが起こるのが物語として当然になっちゃいますからね。

『ミッドサマー』

こうして見てみると、『ミッドサマー』というのは、ホラー映画の常識にことごとく反した作品であると言えるわけです。

『ミッドサマー』は民族学映画

この映画にはさらにもう1つ、恐怖とは別の面白さもあって、何かって言うと、それは民族学映画でもあるっていう点なんですね。民族学って、ある土地の風習とか土着宗教の研究ということですけど、これが結構面白く描かれてる映画なんですよ。ホルガ村というのが、現代の文明社会で失われた様々な風習を保存している共同体となっていて、そこでは間引き、つまり共同体自らが故意に村人の数を減らしてしまうとか、そういう他の社会ではタブーとされる行為が行われている。

ホルガ村の風習に関しては、どういう風に資料集めたかというと、ペイガニズムというキリスト教以前の宗教とか、あるいは日本の今村昌平監督の映画とかを参考に、アジアの風習とかから引っ張ってきて融合しているみたいで、結構リアルに、秘境独特の文化みたいなのを描いているので、そういう文化研究的な、インテリジェンスな興味深さも持ってるんですよ。

『ミッドサマー』

たとえば村の中に奇形児として生まれた人間がいるんですけど、この人物が村の祭式において重要な任務を任されていて、なんでだ?って思うかもしれないんですけど、昔は先天的に障害を持って生まれた人とか、精神が狂った人とかって、むしろ珍しいから神様が宿ってるとか、一緒にいると幸運が訪れるとか、そういう風に捉えて、ありがたがる文化もあったんですね。まあ近代化して医学とかが発達すると、そういうのは全部障害者だってことで、精神病院に入れられたり、ロボトミー手術で廃人にされちゃって社会から隔離されたわけですけど。まあそういう昔の文化を描いているわけです。

「他者」の理解不能性

ただですね、この映画について、かなりの数、「なにを愉しむ映画か分かんねぇ」っていう感想も出ていて、まあ今挙げてきたような部分にも着目して欲しいんですけど、ひとつ、「鑑賞時のポイント」ってものがあって。

何かっていうと、それは「得体の知れない『他者』」という概念なんですよ。これが大きなテーマです。

『ミッドサマー』

ここでいう「他者」っていうのは、「単なる他人」のさらに一歩向こうにいる「こいつとは今後も絶対理解し合えそうにない」という、自分にとって「あっち側の領域」にいる人だと思ってください。本来は哲学用語なんですけど。

たとえばどこのコミュニティにも、一人くらい、何やってるのか全然ワケわからない人間っているじゃないですか。ゴミ集めてたりとか。あるいは奇抜な格好で毎日ブラブラしている人とか。そういうのが「他者」です。

あるいは、仮に宇宙人が地球にやってきたとしてら、まあおそらく、人類とはコミュニケーション不能だと思うんですよ。肉体から思考、文化まであらゆるものが違いすぎて理解できない。だからそういう宇宙人っていうのも、人類にとって一種のワケわかんない「他者」なんですけど。

で、この本当にワケわかんない隣人とか、宇宙人みたいな「他者」というものと、同じくらい理解し合えないであろう存在が、この『ミッドサマー』に出てくるホルガ村の村人たちです。

『ミッドサマー』

彼らは肉体的には人間だけど、あまりにも文化や考え方が違いすぎて、いわゆる「文明社会」に生きる我々には、理解も許容もできない存在になっている。彼らにとっては条件が揃えば、我々の社会で犯罪とされていることや、自分を傷つけることも、むしろ自ら率先して行って、みんなに讃えられるような、そんな神聖なものと化している。

異なる共同体の衝突

簡単に言うと、ホルガ村の人たちにとって、招かれてやってくる外部の人間というのは、「お魚さん」に過ぎないわけですよ。網仕掛けて捕えて、美味しくごちそうになるお魚さん。だから純粋な心を持つ乙女が、清らかな心を持ったままお魚さんにとんでもないことしても、全然彼女らの心には歪みが生じない訳です。

だって、我々も魚食うときに心とか傷まないじゃないですか。恋人と愛や平和を語りながら魚の丸焼き喰ってても平気じゃないですか。逆に、もし変な人が食卓に乱入してきて、「おまえら、魚を殺して食うなんて酷いじゃないか!なんでそんな残酷なことができるんだ!」って言ったとしても、こっちとしては「いやいや、違いますよ。我々は魚を養殖し、自然の恵みに感謝して魚を食べているのです」って言うし、それに対して相手も「いや意味分かんないから。殺すなよ」みたいな感じで、多分平行線になる。

『ミッドサマー』

それと同じことがこのホルガ村で起きていて、やってきた旅人たちになんかとんでもないことしても、「いや、これってスゴくいいことなんだよ」みたいな。それが「得たいのしれない『他者』」の不気味さなわけです。とんでもなくおぞましいことをしでかしているのに、相手の村人は照れたりしているんですよ。「いや、そこ照れるとこじゃないから」みたいな。

だから美しい清らかな映像を保ったまま、グロテスクなことがどんどん進行もするし。普通のホラーって、怖いものを怖いものとして描くけど、このホルガ村の人達の残酷なことに対するリアクションが「いやー、ホントしんみりしちゃったわ」みたいな感じで。そういう認識の不協和音に対して、気味が悪いと思うわけです。

人間は、この理解不能な「他者」というものと交渉することはできなくて、そのストレスを解消しようと思ったら、暴力を行使するしかないわけです。殺すか無理やり止めさせるか。「魚は神聖な生き物だから食うな」って誰かに禁止されたら、それは伝統的に魚を食べて生活してきた日本人にとっては、一種の不当な暴力であって。

恐怖とは不条理に対して抱くもの

真のホラーに救いはない

『ミッドサマー』ってこういう風に、ホラーとして面白い試みもあるし、扱うテーマも現代的でインテリジェンスな部分があるから、メチャクチャ面白いなって思うんですけど、一方で結構叩かれている映画でもあるんですよ。なまじ話題になってしまったがゆえに、普段ホラー観ない人とかから「一方的に主人公たちが悪趣味な襲われ方するだけの、無内容なクソ映画だ!」みたいに言われて。

まあ面白い面白くないは個人の感想なんで、もちろん自由なんですけど、ただこういう批判って、ホラー映画の特徴そのものを批判してしまっている嫌いもあるから、「その作品」というより、「ホラーというジャンルそのもの」を否定してしまっていないか?という気もするんですよ。たとえば恋愛映画に対して「キスばかりしてるからクソだ!」って言われたら取り付く島もないじゃないですか。いや恋愛映画ってそういうもんだから、みたいな。

『ミッドサマー』

で、これ『悪魔のいけにえ』の解説でも話したんですけど、本格的なホラー映画が理不尽で悪趣味で救いがないのって当たり前なんですよ。なぜかというと、本当の恐怖というのは不条理に対して抱くものだから、なんですね。逆に人間って、頭で理解できるものに対してはそんなに怖がらないですから。目の前の友人がどんなおかしい行動とってても、「こいつ、昔っからおかしいんだよね。頭を電信柱にぶつけたあの事件以来……」って理解してたら、別に怖くはないじゃないですか。

良く出来たホラー映画って、基本的に不条理なんですよ。ロメロの『ゾンビ』とかもそうでしょう。あれも「ウイルスでゾンビになるのではなく、とにかく死体が問答無用でゾンビになる」のがミソなわけです。相手がウイルスなら戦うことができるけど、原因不明だからどうしようもないわけです。

この『ミッドサマー』でも、明白な「敵」というものが見えないんですね。それは文化の違いでしかなくて、だから起こった悲劇に対して、誰を恨めばいいかすらもよく分からないんですよ。で、こういう我々の住んでる宇宙の理不尽さ、といったものの寓話がホラー映画なわけで、それは文学にも通じるものがあるんですよ。

ホラーと文学と不条理

良く出来た文学って割とホラーじゃないですか。『こころ』とか『人間失格』ってホラーだと思うんですよ。全然救いのない話で。

ちなみに童話というものも、その本質はホラーですね。子供に警戒させるための話だから。グリム童話の初期バージョンとか、その元ネタになったペロー童話集とか、マジでエゲツなくてグロい話なんですよ。赤ずきんがセクハラされて喰われて終わりだったりして。三島由紀夫なんかは、「よい文学とは、読者を断崖絶壁まで連れて行った上で、そこで置き去りにするものである」って言ってるんですね。

「人生は不条理である」っというのを示すのが文学の王道の1つで、それに対して「解決方法とか救いはなんですか?」と聞かれても「シラネ」って言って見捨てるのが一流の文学なんですよ。なぜかというと、解決方法がないからです。少なくとも一般論としては。

「人間はなぜ死なないといけないの?なぜ苦しみが存在するの?」って聞かれても、一般論としては「理由なんてないよ」としか言えないじゃないですか。宗教とかの教義を信じてれば別ですけど、一般論としてはね。逆に「こんな風に考えれば楽になります」みたいに、簡単に答えや解決方法が示せるような問題って、「それは扱ってる問題が軽いんじゃないの?」という疑念が湧いてきますね。

『ミッドサマー』

この『ミッドサマー』の、「他者」がもたらす理不尽さというのも、身近な問題でありながら、解決が困難ですよね。近くにジコチューの超迷惑野郎がいても、そいつは自分が絶対の正義だと信じていて、どうしようもないこととかあるじゃないですか。でもそいつの中だと、むしろこっちが分からず屋に見えるわけですよ。哲学者のサルトルが「地獄とは他人のことだ」って言葉を残してるんですけど、それに近い感じですね。

で、ホラー映画というのは扱っているテーマがグロテスクでおぞましいからこそ、そのグロテスクさを芸術に仕立てて、一種高尚なものへと高めようとするんですね。この映画でも、映像自体がすごく美しいというのもあるし、村人にとんでもないことをされてしまった人々が、最後に芸術品みたいになっちゃう描写があるんですよ。

この美と醜が一体となった、おぞましくも美しい映像芸術というものが、ホラー映画の醍醐味であると言えるんじゃないかと。この映画を監督したアリ・アスターという人は、ホラーとして成立しなさそうな舞台や状況をあえて設定した上で、新鮮で面白いホラーを生み出してみせたから、すごい監督だなと思いましたね。

アリ・アスターはホラー界のスピルバーグ?

最後にこの映画を監督したアリ・アスターという若手監督についてなんですけど、この人は、今後も大注目です。

どういう監督なのかっていうと、まずこの人、監督としてはかなり若い、現在34歳の人なんですけど、前作『へレディタリー 継承』というホラー映画もすごい良く出来ていて、今一番ホラー界隈で注目され、また成功もしている監督というのは間違いないです。

実は前作と今作は、ホラー映画としての骨格や演出手法がかなり似ていて、どっちも物語世界がまず一個の箱庭的な、閉ざされた空間である、という演出で共通している。そしてその中で起こる恐ろしい出来事を主人公は止めることができず、いつの間にかその場を支配する者たちの呪術の一部に組み込まれてしまう、という共通した構成を持っていて。

で、この「主人公たちは無力であり、状況を支配する存在に振り回されることしかできない」という世界観は、『セブン』とかで有名なデビッド・フィンチャー監督にも通じるものがあって、まあアリ・アスターが影響受けているかは知らないんですけど、フィンチャーと同じように、運命論的な世界観や思想に執着して、同じテーマを舞台や小道具を変えながら何度も演じるオブセッション型の作家なのかな?という予感もあります。まだ作品数少ないので、あくまで予感ですけど。

『ミッドサマー』

さらに言うとですね、この監督は恐らく、斬新な手法を駆使して新境地を開拓するタイプの監督、ではなく、過去の映画に関する大量の記憶を自在に出し入れしながら、それらを「良いとこ取り」した上でモダンな作品に仕上げてみせる、映画の記憶の「編集と再構成」によって勝負するタイプの監督なんじゃないかなと。たとえば『へレディタリー』の中にも日本ホラーの影響とか『エクソシスト』的な場面とか色々あって、『ミッドサマー』の場合はイングマール・ベルイマンや日本の今村昌平から持ってきたということを本人が言っていて、つまり複合的なホラーなんですよ。そういう映画の記憶を利用して、比較的大衆受けする現代的な作風に仕上げる点で、スピルバーグっぽいところもあるかなと。

スピルバーグも、特に最初の頃は、斬新な作品を作るというより、ヒッチコックの演出手法を継承しながら、それをモダンなエンタメに仕立ててみせる、という監督で、それが『激突!』や『ジョーズ』という映画であって、まあ90年代は『ジュラシック・パーク』の生物CGとか、技術的に先進的な試みも行うようになりましたけど。

この2人の監督は、テーマが家族っていう点でもなんか似ているし。スピルバーグ作品に共通する要素の1つが「父親の不在」であることは、以前の『激突!』の動画で話したんですけど。アリ・アスター監督の場合は、前作がまんま家族崩壊の話だったし、今作も倦怠カップルが破局していく話にもなっていて、これも広い意味での家族ドラマと言えるかなと。なんかアリ・アスター監督は過去に家族に関するスゴいトラウマみたいなのを抱えているっぽいんですけど、それは彼は、インタビューとかでもあまり明確に語らないんですね。

あとその監督の作家性とかって、作品をいくつも観ていかないと何とも言えないので、有意義なことを言うには最低でもあと3作品くらい観ないといけないから、「まあそういう可能性もあるかもね」くらいに軽く聞いて欲しいんですけど。

まあそういうわけで『ミッドサマー』が面白いという話と、アリ・アスター監督に要注目というのが、今回のお話でした。ご視聴ありがとうございました。

映画の記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿: 2021/02/20 ― 更新: 2021/02/27
同じテーマの記事を探す
関連記事
コンテンツ
文客堂について