『ロッキー』の絶望と、裏返しとしての希望【ラジオ】

2021/02/11 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『ロッキー』(’76)

今回紹介する『ロッキー』は、ボクシング映画なんですけど、未だに大人気の映画で、シルヴェスター・スタローンの代表作であるだけでなく、アメリカ映画の流れを変えた、と言える部分もある。それほどの映画。しかも一見純粋な成長物語だけど、その裏では結構暗いテーマも真摯に描いていて、ただのエンタメじゃあない。

1作目の『ロッキー』は、ドラマが非常に濃厚で、むしろボクシングよりかも人間同士の距離感とか葛藤とかがメインの作品になっていて。

じゃあ『ロッキー』がどんな映画かというと、全体としてはあくまで、「古典的な少年マンガ的カタルシス」というのをベースにした作品だと思うんですよ。つまり友情・努力・勝利で盛り上がる映画。

『ロッキー』あらすじ

ただもちろん子供向けの話というわけじゃなくて。ロッキーは30歳だし、周囲の人間も全員30前後で落ちぶれてる。演出としては少年マンガ的だけど、全くキラキラしたものではなくて、実際にはボンクラたちの話で。

まずロッキーの生活環境がひどい。低所得者たちが住んでいる、掃き溜めみたいな住宅の片隅で、ボロいアパートの一室に寝泊まりしていて。もう完全にホームレス一歩手前。ロッキーの周囲にいる人間は全員、人生にやさぐれたり失望したりしていて、未来に希望がない。だからお互いに愛想を尽かし合ったり、他人を利用して仕事にありつこうとしている。生きるだけで精一杯になっていて、互いに足を引っ張ってしまう。

ロッキー自身も、昔は有望なボクサーだと思われてたのに、結局鳴かず飛ばずで中途半端な成績のまま、キャリア末期を迎えていて、30歳だからもう引退を考えなきゃならない。そんなときに黒人でヘビー級チャンピオンのアポロが、ロッキーを突然対戦相手に指名して、アメリカン・ドリーム的な成り上がりを賭けた試合というコンセプトで、ロッキーにラストチャンスを与えるんですよ。実際には穴埋めのための試合なんですけど。

『ロッキー』

このチャンスに賭けようとしてロッキーの周囲に集まってきた負け犬たちが、少しずつ協力しあって打倒アポロを目指す……というのが『ロッキー』の大まかなストーリーなんですが。

脇役の完成度の高さ

集結するボンクラたち

じゃあ、この映画の何が魅力的なのか。主人公ロッキーが熱いキャラだっていうのはもちろんなんですよ。その彼が猛特訓するシーンはもちろん燃えるし。ただ主人公が魅力的な映画だったら他にもあるんだけど、この映画は、周囲にいる脇役たちの完成度が半端ない。

脇役なんだけど、完全に一人のキャラクターとしての存在感を放っていて、全員が準主役級の魅力を備えていて、その彼らが、ほぼ全員ボンクラなんですけど、ロッキーの勝利に自分も賭けて、意地とかコンプレックスとかを乗り越えながら全員が協力していく、この流れ。この流れに燃えるわけです。

記憶に残る脇役とは

脇役に関しては、配役も完璧だと思うし、それぞれの役者によって各人物の存在が十分に深堀りされている。だから深みがあって奥行きがある。奥行きがあるというのがどういうことかというと、そのキャラが世界のどっかに本当にいて、一個の存在としての歴史を持っているような錯覚を抱かせる、ということ。人間臭さがあると言ってもいいけど。

『ロッキー』シリーズの後継作として作られた『クリード』は、結構いい映画なんだけど、この脇役の存在感という点で『ロッキー』に及ばないと思ってて。特にヒロインが、典型的なアメリカ流のヒロイン像に収まってしまっていて残念だった。

『ロッキー』

それに比べて『ロッキー』の方だと、主人公も恋人もお互いに繊細でシャイなところがあるという、アメリカ映画には珍しいパターンだったりして、まずこの時点で、「ちょっと変わってるな」って思うし。主人公と結ばれるエイドリアンは一見地味なんだけど、恋人ができることで、内にあった強さを徐々に出せるようになっていくという、そういう人物にある複雑性とか二面性が面白くて。

ポーリーの人間臭さ

『ロッキー』の脇役はみんな何かしら強烈なコンプレックスを抱えてるんですけど、その中では、個人的にはポーリーが一番人間臭くて好きで。多分一番役としてよく出来ているから、シリーズの最後までポーリーだけ残り続けたのだと思うんですけど。

『ロッキー』

ポーリーの人間臭さとは何か。たとえばポーリーは自分の妹をダシにしてロッキーに恩を売ろうとするダメ男で、酒に溺れ、自分ではダメだと思っていることも感情的になってやってしまう。だけど根は良いヤツで、本当はダメな自分を嫌悪している。でも物事が思い通りにならないから、ついカッとなって他人の足を引っ張り、ますます自己嫌悪に陥る。こういうポーリーの破滅性というのが、クリスマスの夜に妹のエイドリアンと大喧嘩するシーンによく顕れてて。

映画を観ていると、むしろポーリーの素行の悪さの根源に巣くっているものは貧困だってことに気づくんですよ。妹のエイドリアンは、そんなポーリーを捨てていくことができないし。ロッキーがコーチもなくて鳴かず飛ばずな理由も同じで、彼は貧しいイタリア系移民だから、だから自暴自棄になってしまう。社会の根本に根を張っている病気は、いつだって貧困で。

貧困が彼らを苦しめて、それで気力を失って酒に溺れるから、ますます貧困になるという負のループに入ってしまっている。それが資本主義社会の、というより、人間社会の病理だと思う。卵が先か鶏が先かという問題でもあるけど、貧困のせいで努力自体が困難になるという構造は確実に存在する。人間の精神力は無限ではないから。

『ロッキー』の裏テーマは“貧困”

社会が映画に望むもの

ここでちょっと、『ロッキー』の裏テーマという、極めて重要なものに触れたいと思うんですけど。この映画はアメリカン・ドリームを体現した映画として有名である一方、実は上映時間の半分以上を使って延々と描いているのは、栄光とは全く正反対のもので、それは成功する前の、希望のない貧困なんですよ。

『ロッキー』

そして恐らく社会の貧困の、その、おぞましく、病的なループ構造を深くえぐって欲しいというのが、映画に対して、アメリカ人が潜在的に欲望していることの1つだと、僕は考えていて、『ロッキー』が熱狂的に受け入れられて、アカデミー賞まで獲ったことの一因はそこにある、というのは、言えると思います。

たとえば『攻殻機動隊』なんかで有名な押井守監督なんかも「映画は単なる時間つぶしではなくて、それが作られた時代の不安を封じ込めたタイムカプセルである」と言ってて、観客はその不安の正体を知ることを無意識に求めていると、こう言うんですね。「オレたちの苦しみは一体何なのか教えてくれ」ってことなんですよ。だから貧困の本質を含んでいることは、アメリカで評価される映画になるための資質の一つだと言えると思います。

最近の映画で言えば、『ジョーカー』が大ヒットして、格差社会を描いた『パラサイト』がアカデミー賞を取ったのも同じことで。アメリカというのは貧困率が慢性的に高く、貧者はとことん貧しい国で、だから彼らは、貧困の本質をえぐった映画を「これは自分たちの映画だ」と思うし、最近では中流の夢から覚めた日本人もそう感じるようになってきている。貧困を描いた映画が熱狂的に受け入れられるのは、社会がそれだけ病んでいる証拠なんですよ。

元々の脚本

それでここが今回の話の、1つの核心でもあるんですけど、そもそも『ロッキー』は初め、アメリカン・ドリームを実現するという映画ではなかったんですね。そうじゃなくて、「ロッキーと仲間たちは一致団結したけど、結局絶望して夢が叶いませんでした」っていう、全然救いのない脚本が書かれていたんですよ。

元の脚本だと、実はトレーナーのミッキーが酷い差別主義者であったことが試合前に発覚して、それに失望したロッキーがアポロとの試合を放棄してボクサーを辞める、という衝撃な結末で。希望が見えたと思っても、結局貧者同士で足を引っ張り合って泥沼から抜け出せない、という、貧困が裏のテーマだと言ったんですけど、元々は表のテーマで、最初の70分が延々苦しい話なのはその名残なんですよ。

これは30歳までずっと貧乏に苦しんでいたスタローンの経験と、当時はバッドエンドを迎えるニューシネマが流行ってたことの影響だと思うんですけど、ところが奥さんの反対でバッドエンドがハッピーエンドに書き換えられて。だからこの映画は前半でどうしようもない絶望を描いていながら、最後は友情・努力からアイラブユーで突き抜けるという二面性を持つようになって。終わりよければ全て良いわけだから、全体としては真逆の作風になったと言える。

それで、この『ロッキー』の大成功というのは、映画の歴史への影響が大きくて、この『ロッキー』の76年以降、破滅を描いたニューシネマ的な映画が急激に減って、『スター・ウォーズ』とか、ハッピーエンド的な娯楽大作がアメリカ映画の主流になっていくんですね。だから映画の歴史を変えるキッカケの1つになった、と言っても、それほど大げさではないと思います。

登場人物の非言語的コミュニケーション

生きたドラマとは

ちょっと貧困の話が長くなったけど、ポーリーの話でなにを言おうとしていたかというと、主要人物の背景に人生の重荷とか宿命とかがあって、それを言葉にならないやり取りの中で感じさせる、機微やニュアンスに満ちた人間ドラマになってるというのが、『ロッキー』の一番良くできているところなんじゃないかなと。

逆に下手なドラマの典型って、とにかくセリフで全部表現しようとする。だから言葉が浮くし。あとは大げさな感情表現とか。「感情表現」というか、それは既に「感情説明」になってしまっているんだけど。でも人間って本来、ボディランゲージみたいな、非言語的なコミュニケーションの方がずっと多い生き物だし、言葉にならない言葉を表現しないと、「生きたドラマ」にはならないんですよ。

『ロッキー』

表現は細部に宿る

たとえばこれは主演のスタローンがニュー・リマスター版のコメンタリーで説明していることなんだけど、ロッキーというのはボクサーではあるものの、全然オラオラ系じゃなくて繊細な人物だから、自分の惚れているエイドリアンに話しかけている最中にも遠慮して、カゴの中の鳥に話しかけるという体裁で、自分の想いを間接的に伝えたりするんですね。

こういう非言語的なメッセージが多いから、その分画面内の情報量が多くて会話にもリアリティが生まれていて、この映画は一回目から面白いけど、スルメ映画でもあって、観返すたびに新しい発見があって面白い。「あっ、ここはこういうニュアンスか」みたいな。

キャラクター同士のやり取りの中では、中盤でロッキーにとって転機になる、トレーナーのミッキーとの会話シーンがもう、最高で。

物語序盤でミッキーはロッキーのことを半ばジムから追い出してしまったのに、アポロとの突然の対決が決定して、いきなり「オレをマネージャーにしろぉ。おまえにはマネージャーが必要だぁ」とか、調子のいいおためごかしを並べてきて、ロッキーは嫌なんだけど、優しい人間だから、面と向かってキツイことは言えない。でもミッキーが家から出ていった後に、今までの不満が爆発して、大声で全部言ってしまう。ドア越しに。ミッキーはそれに対して何も言い返せなくって。

『ロッキー』

それで罵声を背中で受けながら、トボトボと家を出ていく。直後に、不満を全部ぶちまけたロッキーが卒然と追いかけてきて、何か声をかける。二人の男が握手をする。そして特訓が始まる。この流れがいい。もうメチャクチャいい。喧嘩した後の仲直りの部分にセリフってないんですよ。でもこの立ち振舞いに、二人の男の葛藤とか軋轢とか友情とか、全部顕れていると思ってて。二人の沈黙がすごく雄弁で。

役者と肉体

脇役が良いと言ったんだけど、もちろん主役のロッキーが、スタローンにとって一番の当たり役であって、この映画の中でも最も役と俳優が一致した人物というのは間違いないですね。そもそも『ロッキー』の脚本はスタローン自身が、あるボクサーにインスピレーションを受けて、そこに不遇な境遇から這い上がろうとする自分自身を重ねて書いたもので、脚本家が自分をモデルにした人物を自分で演じるのだから、当然シンクロ率は鬼のように高い。もう400%くらい。「オレが一番ロッキーをうまく演じられるんだ」って話ですよ。ほとんど本人そのものだから。

役者の価値とは何か、という話をしたときに、「演技力だ」って答える人もいるんですけど、自分としてはそれより「肉体そのものの価値」というのが一番重要な資質だと思ってて。肉体、つまりその人の身体から声、顔つき、雰囲気まで含めた、その人間の固有性・唯一性というものが、どこまで役柄に求められるものと一致するか。

これがズレていると、当然、どんなに演技で頑張ってもカバーできないし、逆にハマっていれば、クリント・イーストウッドみたいに、突っ立って遠くを見つめているだけで演技が成立するということにもなる。別にイーストウッドを揶揄してるわけじゃないですよ。あとは、昔は退廃的な女性が主人公ならカトリーヌ・ドヌーヴがベストだったし、破滅するイケメンが主役なら、どこか消え入りそうな儚さを感じさせるレオナルド・ディカプリオが演じるとハマりやすいわけです。

『ロッキー』にしても『ランボー』にしても、やっぱあれは苦労人として彷徨し続けたスタローンだからこそハマるわけであって、仮に同じ肉体派俳優として龍虎の関係にあるシュワルツェネッガーを引っ張ってきたとしても、絶対にハマらないんですよ。

なぜかというと、シュワルツェネッガーという人は曇りのないまっすぐな瞳をしているから、貧困育ちというのは似合わない。彼に似合うのはロボット役か、巻き込まれ型のヒーロー。それに比べるとやはりスタローンは実人生における闇が濃いから、ただブラブラしているだけでも辛さとか哀愁とかいったものを漂わせることができる。

即興と計算

『ロッキー』を偉大な映画にしている理由の1つが、撮影中に起きた偶然を上手く演出に昇華させていることで、これはコメンタリーを聴くとよく分からんですけど、たとえばロッキーとエイドリアンがスケート場で一緒に滑るシーンは、予算がないせいで、巨大なスケート場をたった2人で滑ることになったけど、このおかげで逆に印象的なシーンになったわけです。

他にも、アポロとの決戦前夜にリングへ行ったロッキーが、自分の描かれた絵のパンツの柄が違っていることに気がついて、それを指摘すると「どうでもいいじゃないか」と言われてしまうシーンがあって、あれも、トラブルで本当に絵を間違えてしまったらしくて。でもそれを利用して「無名の挑戦者であるロッキーの絵が間違っていても、誰も気にしちゃいない」という、主催者側にとってこの試合が、ただの穴埋めの茶番に過ぎないということを強調するシーンになっているわけです。

トニー・ガッツォに注目せよ

他にもこの映画の密かな注目ポイントを挙げると、映画の序盤に多く出てくる、高利貸としてロッキーを雇っているトニー・ガッツォという人物が、実は面白いと思いますね。

『ロッキー』

この人って最初あからさまに悪人な感じなんですけど、「実はこの映画で一番イイ人説」までありますよ。ロッキーがエイドリアンとデートする噂を聞きつけてお金くれたり、アポロとの試合が決まった後も、トレーニング代としてお金くれて激励して、しかも何にも見返りとか求めない。試合中も観客席からちゃっかり応援しているし。「一見、悪徳に見えて、ただロッキーを応援しているだけの人」ですからね。よく考えると悪いこと何にもしてないなっていう。これこそがね、本当の伏線というやつだと思うんですよ。

『ロッキー』は他にも、ステディカムを導入した初期の作品とか、卵をコップに何個も入れて一気飲みする動作とか、フィラデルフィアのロッキー・ステップとか、語りのネタは無数にあるんですけど、ちょっと長くなったんで、今回はこの辺にしておきましょうか。もしかしたら続編について語る中で、その辺の話もできるかもしれないですね。

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初版:2021/02/11 ―― 改訂: 2021/02/27

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