『運び屋』(’18) / 緩やかなる終わりの予感

2021/01/24 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『運び屋』

アメリカを代表する映画監督でありながら、他のハリウッド監督とは根本的に異なる映画的イデオロギーに基づいて撮り続ける孤高の作家、クリント・イーストウッド。相変わらず「面白いのだが、なんで面白いのかは誰にも分からない」という、言語化困難な得体の知れない映画を思うがままに撮り続けている独走じいさん。

話の筋は次のようである。90歳近くにもなる老人・アールが廃業し、やることもなくなった後に、ふとしたキッカケから麻薬の運び屋を請け負う。やってみたら簡単。車を走らせるだけ。それで手に入れた大金で、嫌われていた家族に奉仕することもできた。こうして他人を助ける喜びに目覚めてズルズル運び屋を続けるアールだが、あまりにも大量の麻薬を運ぶ彼に、捜査の手が次第に迫ってくる。

図:『運び屋』

2時間弛緩し続けるロードムービー

この映画全体に漂うのは「終わりの予感」である。映画のあらゆる要素が「終わり」に向かって緩やかに前進していく。アールは寿命が近くて未来がないし、その妻も持病を患っていて永くない。麻薬捜査は、あたかもアールの生前葬でも準備しているかのように淡々と、着々と進行していき、当たり前のように彼を追い詰める。老人のアールはもはや逃げも隠れもせず、呑気に歌を歌いながら「終わり」を待っている。

ほとんどロードムービーと言っていいほど、運び屋アールがカントリーロードを伸び伸びと車で駆けるカットが贅沢に映画に盛り込まれる。この“弛緩”した時間こそが豊かなのである。「終わり」に向かって、緩やかに進んでいく時の中で、互いのすれ違いに気づき、死ぬ前になにを選び取るかを決める――本当に“緩い”映画であり、2時間の映画を丸ごとその“弛緩性”に投じるという“蕩尽”に耽溺する作品。

イーストウッド作品はほとんどの場合、作劇によってドラマ性やどんでん返しを出すわけでもなければ、派手なアクションシーンで盛り上げるわけでもない。この映画も、話の筋そのものはどこかで聞いたような感じで、どうということはない。いわゆる「エンタメ」とはズレた位置にある。またイーストウッドは作品内で主張やテーマを打ち出さない沈黙の映画監督なので、思想やメッセージ的な映画では全然ない。そういう分かりやすさを期待して観ると山なしオチなしである。

したがってかなり人を選ぶ作品であり、本来であれば、ひねくれた映画マニア向けの非言語的な映像詩として、シネマの片隅でひっそり消費される運命にあるはずなのだが、今回は家族を軸にしたストーリーが一見メロドラマ風だったので、誤ってヒットしてしまった。

関連作品

ロバート・レッドフォードの引退作『さらば愛しきアウトロー』(’18)もまた、レッドフォード演じる銀行強盗の主人公の「生き様映画」として、美しい映像と無駄のない筋書きを堪能させてくれるピカレスク・ロマンである。

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初版:2021/01/24

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