『パニック・ルーム』(’02) / フィンチャーは思想家じゃないよ、という話

2020/12/16 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『パニック・ルーム』コロンビア映画, 2002年

離婚した妻と娘が都内の大邸宅に越してくるが、引っ越し当日にいきなり泥棒に入られてしまう。彼らの狙いは邸宅の前の持ち主が秘匿していた財産。母子は逃げ込む。用心深い前の持ち主が作っていた、大邸宅の隠し部屋、通称「パニック・ルーム」に――

この『パニック・ルーム』は、悪い言い方をすれば「普通」のサスペンス映画である。もう少し詳細に言えばヒッチコック的なサスペンスであり、つまり「いかに観客を安心させずに繋ぐか」という、古典的なサスペンスの演出論に沿った密室劇である。「部屋に閉じこもったまま、いかに泥棒たちをやり過ごすか?」という密室のゲーム。

『パニック・ルーム』

全体として大変「古い」作風である。なにしろヒッチコックである。先に言っておくと寝てしまうほどつまらなくはないし、2時間も緊張を途切れさせずに繋ぐ脚本やカメラの力は確かである。

特にカメラワークに関しては、鍵穴の中にカメラが潜り込んだり、あたかもFPSのスペクテイター・モードのように邸宅内を自由自在に飛び回るシーンなど見どころが多い(CG合成しているらしい)。

この映画にテーマがあるとすれば『離婚』だと思う。

デヴィッド・フィンチャー
(パニック・ルーム : インタビュー)
以下同様
『パニック・ルーム』

フィンチャーは革命的であることを放棄したのか?

しかし、なぜ?――本作につきまとう問題はこれである。

なぜ、「あのデヴィッド・フィンチャー」が、「この作品」を撮らなければならなかったのか?

『セブン』(’95)で度肝を抜かれ、『ファイト・クラブ』(’99)を観て失神し、911テロを目撃しながら「フィンチャーの言っていたことは、本当だったんだぁ……」と、呆け顔で21世紀の預言者の到来を確信した映画青年たちは、『パニック・ルーム』の思想性皆無な、屈託のない大衆娯楽作品っぷりに頭がパニクった。

「フィンチャー監督は、有名人特有の病で体調を崩したのかしらん?」

『ファイト・クラブ』の思想は原作者のパラニュークの思想であって、オレのじゃないよ。

90年代に撮った2本の代表作で「ポストモダンの革新的思想を広める映像作家」として注目されたフィンチャーは、しかしこれ以降、ああいった思想的で、構造的な、価値観をひっくり返すような黙示録映画を撮っていない(2020年現在)。『パニック・ルーム』は巧妙に作られた映画だが、フィンチャー作品としては凡作だ。

これについて、恐らく『セブン』と『ファイトクラブ』でフィンチャーのファンになった人たちは、多かれ少なかれ失望を感じているだろう。「フィンチャーは“普通”になってしまった」と。

もちろん『ソーシャル・ネットワーク』(’10)などに代表されるように、フィンチャーは常に一流の監督であり続けているが、それは「ものすごく上質な映画」であって、「価値観をひっくり返すようなぶっ飛んだ映画」ではない。

『パニック・ルーム』を選んだのは、純粋に映像的な動機だ。

デヴィッド・フィンチャー(1962-)

結局のところ、フィンチャー自身は資本主義社会の思想的革命児というよりは、純粋に「映画の人」なのだろう。もっと言えば「映像オタク」なのだと思う。彼は脚本を、他の誰にも撮れないような完璧な映像に仕上げてみせる。それは「忠実」ということであり、そこに一々監督の思想とか主張とかを挟まない。

シナリオを読んでる間、撮影のアイデアが次々浮かんできて撮りたくなったのさ。

だから彼の作品に「フィンチャー節」なるものを求めても梨のつぶてだ。『ファイト・クラブ』については、フィンチャー自身が述べているように、思想的だったのは原作者であって監督ではなかった。

もちろんこの監督が以前のような思想的な映画を撮れば、それは90年代作品のファンに熱烈に受け入れられるに違いないが、彼自身にもう、そういったファンの期待に応える意志がないと思われる。そう考えると、フィンチャーを誤解していたのは、何より彼の熱烈なファンたちだったのかもしれない。

満足度:6/10

オレのこと完全主義者という奴らは、よっぽど凡庸か怠け者だ。いいかい。映画ってのは物凄く複雑なんだ。オレは必要もないのに何度も撮り直したり、自己満足で凝りすぎたりしてるわけじゃない。それぞれのシーンの本質を最もシンプルに実現した撮り方を求めてるだけなんだ。オレの中にあるビジョンを実現しようとしてるわけじゃない。だから、スタッフからあんたのアイデアはよくないと批判されたら、オレは素直に考え直すよ。

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初版:2020/12/16 ―― 改訂: 2021/06/05

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