「映像の快楽」と「暴力・エロ・グロ」について

2020/12/02 ・ 映画 ・ By 秋山俊
映画と暴力の歴史に関係が深い作品と言えば『ダーティハリー』(1971年)

暴力とは相手を殴ったり銃撃することそれ自体ではない。同時に、エロとは乳房を見せることやセックスを描くことでもない。実を言えば「暴力」も「エロ」も「グロ」もこの世には実在せず、これらは人間の考え出した概念に過ぎない――

――先日の『トータル・リコール』ラジオ解説の中で、ポール・バーホーベン監督の映像的な特色を、『ロボコップ』(’87)などを引き合いに出しながら「映像快楽の根源である“暴力・エロ・グロ”を自在にコントロールしながら、誇張して表現できる作家である」という感じのことを述べた。これについて、簡潔に述べただけでは誤解を招きやすいだろうと思ったので、ここで少しばかり補足しておきたい。

「暴力」と「暴力行為」の違い

人間は暴力的な映像に本能的に反応するが、実は「暴力」を描くのに必ずしも「暴力行為」を必要としない。「危険人物が相手を睨みつけながら鉄パイプに手を伸ばす」という、それだけでも「暴力」になり得る。「暴力」は基本的に概念であって、行為そのものではないからだ。だから「言葉の暴力」のような表現はすんなり出てくる。逆に言うと、表面的には「暴力的」であったとしても、それが実際に「暴力」であるとも限らない。

これは「エロ」にも同じことが言える。当たり前のように平然と乳房をさらけ出している女性にはほとんどエロさがないが、清楚な女性が胸をチラ見せすることは、下手なヌードよりもエロいといえる。

ここで話を先日の『トータル・リコール』に持っていくと、私はこの映画を「暴力・エロ・グロを一見過激に描きながらも、下品になっていない」と解説した。なぜか。それは本作が、映像的には多分に「暴力的」「エロ的」なイメージを喚起しつつも、実際には「暴力」も「エロ」も、極めて弱いレベルでしか描いていないからだ。わかりやすく言えば「雰囲気」しか漂わせていないのである。だから下品にならない。

図:『トータル・リコール』1990年

ラジオ動画の中で、私が最も魅力的だと感じたシャロン・ストーンのスクリーンショットを「エロ」の代表例として引用したところ(上図)、ただちに賛同のコメントをいただけた。そしてそのコメントには「ポーズは『氷の微笑』のシーンよりイイ!」というものもあった。

これはまさに、私が言わんとしていたことを汲み取ってくれたコメントで、この映画のローリーことシャロン・ストーンは、『氷の微笑』(’92)と違って乳房も無修正のアソコも開示していないが、実にセクシーである。

暴力の脱臭

同様に、シュワルツェネッガー演じるクエイドは登場する悪党どもを片っ端から刺殺し、腕をもぎ取り、あるいは火星大気の中に放り出して殺すが、全てのシーンがどこかコメディ的に描かれているため、そこには暴力行為の映像的快楽が存在するだけで、真の暴力が存在しない。

エロの場合は逆のことが起きている。登場人物は美女にセクシーな誘惑ポーズをとらせ、エロのイメージを観客の頭の中で呼び起こしているだけで、画面の中で実際の行為は見せない。

ポール・バーホーベンは巧みに、映像から「暴力・エロの臭み」を抜き取り、脱臭して、無害な愉しいコンテンツに変換しているのである。だから『トータル・リコール』は大衆娯楽映画として完成され、老若男女の区別なく楽しめるのである。

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初版:2020/12/02

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