追われる男とスピルバーグの宿命『激突!』:ラジオ第0回

2020/10/19 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『激突!』Universal, 1971年

『激突!』あらすじ

まずこの映画のストーリーを簡単に紹介すると、田舎道を走っていたセールスマンが、途中で自分が追い越したタンクローリーの運転手から、なぜか執拗な嫌がらせや攻撃を受けるようになってきて、次第にそれがエスカレートして命まで狙われていくというサスペンスで。主人公は自分が攻撃される理由が分からず、相手の運転手も一切姿を見せないのですが、命の危険を感じた主人公は、やがてタンクローリーと戦わざるを得ない状況に追い込まれていく、というものです。

低予算サスペンスのお手本

この『激突!』は、スピルバーグ作品の中では上位10本には確実に入る面白さだと思ってて、何ならベスト5もあり得るかなと。なぜ上位に入るかというと、スピルバーグ的な良さはそのままに、とにかく無駄が一切ない。最初から最後まで、ずっと緊張感が続いて、そのまま90分間走り切ってしまう映画。

なぜ90分間ダレないかというと、相手の殺人タンクローリーが、なかなか狂ったやつで、主人公をクリエイティブに殺そうとしてくる。タンクローリーぶつけるだけじゃなくて。

たとえば最初、相手の運転手が、主人公に追い抜いてくれって合図を送るんですよ。でもそれが罠で、主人公が追い越していいのかと思って、車線変更した瞬間に、反対側から車が来て死にそうになったり。つまり事故が起きるように相手が誘導してきたんですけど。そうかと思えば、道端で子供たちが困っているところで、このタンクローリーがやって来てヒーローになったり。そういう風に、人前では平然と善人っぽく演じてたりして、相手が何をしでかすか分からない。

そうやってあの手この手で独創的な煽り運転を続けた結果、おっさんがただ車を走らせ続けるだけで90分間スリルを持続させてしまったという、サラッととんでもない作品になっていて。初めてみたとき、よくこの設定で引っ張れるなと、一種の感動を覚えたんですが。

ずっと車を走らせている映画だから、低予算の割に激しいアクションがあり、スピード感もある。全編これ低予算サスペンスのお手本とでも呼ぶべき作りで、初期作品にして既に才気煥発といった風格を携えていて。

しかも、無駄のない映画だと話したんですけど、最初に放送されたTV版だとさらに短くて、74分しか尺が許されなかった。つまり初期バージョンは本当にタイトな映画で一切の冗長性が許されなかった。74分というのは、スピルバーグのキャリアの中でも最短なんですね。それで思うのは、逆にこのTV番組の束縛というのが、むしろスピルバーグの才能を引きずり出したんじゃないかと。

どういうことかというと、初期スピルバーグの演出上の特徴は、“省略”と“並行演出”の大胆さにあって。たとえばこの映画の冒頭のシーンというのは特徴的で、普通なら日常描写から入って、主人公がどういう人間か説明しながら起承転結させるところを、いきなり何の説明もなしに、車に乗って田舎道に入っていくシーンから始めてしまう。でも余計な描写を省略することによって、時間を短縮すると同時に、この主人公は何者なのかというサスペンスも生んで、かえって面白くなっている。これが妙技なわけです。

こういった省略と並行演出によって、単位時間あたりの情報量を最大化するところに、『激突!』や『ジョーズ』の濃密な面白さがあったわけなんですけど、成功した後のスピルバーグ作品は次第に長尺化していって、この省略の技巧は半ば失われて、ちょっと冗長なんじゃないの、と思うような3時間ものを撮るようになった。

だからこの『激突!』は、TVという束縛の中で作ったからこそ、ものすごく引き締まった作品になっているのではないかと。大監督の修行時代ならではの、認められてない環境ゆえの油断の無さとストイックさが詰まっているのが、この『激突!』なんですよ。

スピルバーグ作品で繰り返されるテーマ

それで、スピルバーグ監督というと『ジョーズ』(’75)で名を馳せた監督であり、『ジョーズ』が彼の原点だとよく語られるんですが、その『ジョーズ』の原型が本作『激突!』であって、実はスピルバーグという人は、『激突!』で最初に示されたテーマを長年にわたって反復している監督なんです。

ではそのテーマ、つまりタンクローリーとの戦いの裏で語られているサブプロットは何かというと、それは「軟弱な男が、巨大なモンスターに追われる中で、自分の中に眠っていたオスの本能を目覚めさせ、成長する」というものです。スピルバーグの撮る大衆映画には、このパターンがいくつも見られます。

『激突!』だけでなく、『ジョーズ』にも『ジュラシック・パーク』にも、そういう共通性がある。

ひ弱な男性の覚醒

それで、そのようなスピルバーグ作品の通奏低音として響いている「男子の成長物語」というのが、テーマとして一番前面に出てきているのが、実はこの『激突!』だと考えられる。というのも、この映画は出だしから、男性が女性化して軟弱になっている現代社会に対して、男たちよ立ち上がれと、警鐘を鳴らすシーンから始まるからです。

最初に、ガレージから車が発進して、ラジオを聴きながら田舎道へ移動する場面から始まりますが、このラジオの内容をよく聴くと、家の中で妻に主導権を握られた男性が、自分はもはや世帯主と言えるのか分からないと相談する内容になっている。

さらに主人公がガソリンスタンドで車を停めた後、奥さんに電話をかけて怒られるシーンがあります。その様子から、この主人公も恐妻家であって、彼の家はかかあ天下になっていると推察できる。つまり作品自体がことさらに現代男性の軟弱さを強調してみせて、これが1つのテーマになってますよと説明しているんですね。

女性躍進の時代

70年代のアメリカ映画は、男女の立場逆転というテーマが盛んに出てきた年代で、その代表が1979年の『エイリアン』の女主人公、リプリーです。あそこから「男勝りに戦うヒロイン」というものが出現して、その流れが『ターミネーター』のサラ・コナーで決定的になりました。

逆に男性の方はというと、『クレイマー・クレイマー』というダスティン・ホフマン主演の映画で、自分より収入が上になってしまった元妻に、息子の養育権を取られる養育権を取られてしまう姿などが描かれています。こういった男女逆転の背景には、当時のウーマン・リブ、いまで言うフェミニズムの運動もあり影響しているでしょう。

主人公が家庭で妻に頭の上がらない男である一方、彼を襲うタンクローリーの運転手は男性的象徴のカタマリであります。そもそも乗り物からしてゴツいし、顔は見えないものの、毛深い腕やカウボーイみたいなブーツは見える。つまりこの物語は、田舎にやって来た都会の軟弱なオスが、生まれながらにオスとしてオスのまま生き抜いている、カントリーロードを爆走する野獣のような男にいじめられる中で、自らの中に眠っていたオスを蘇らせるという筋なのです。

『ジョーズ』との共通性

主人公の覚醒の象徴は、地面に落とされたメガネにあります。メガネを捨てることで、彼が「闘うオス」として覚醒したことが示されるのです。これは『ジョーズ』でもそのまま繰り返され、ジョーズとの対決を決意した瞬間に主人公のメガネは海に落ちてます。

というか、最初にも言いましたが『ジョーズ』というのは『激突!』の完全なる変奏曲です。『ジョーズ』でも主人公は争いが嫌で田舎にやってきた男だし、敵が「モンスター」である点も共通。『激突!』の敵はタンクローリーなんですけど、あれは監督も言うようにモンスターとしてデザインされているんですね。

『激突!』では、相手の運転手が一切姿を見せない演出が特徴で、これによってタンクローリーそのものが意志を持ち、悪意でもって攻撃してくるような錯覚を抱かせるように意図しています。さらにクライマックスでは、タンクローリーを映しながら恐竜の鳴き声のようなサウンドが流れるという演出も加えられる。

実はスピルバーグというのは『ゴジラ』のファンでもある怪獣オタクで、必然的に、スピルバーグが男が覚醒する物語を撮るとき、巨大モンスターに襲われた男が、逃げる最中に覚醒してモンスターに立ち向かうというプロットが繰り返されるようになります。

その代表作が『ジュラシック・パーク』で、この作品では恐竜に追われた子供嫌いの男が、逃げながら父性に目覚めて子供を守るようになっていくのです。これにはスピルバーグ監督の、結婚して家庭を持ったという私生活の変化が大きく影響しているという話です。

スピルバーグ監督の作家的宿命

スピルバーグはほとんどの監督作品において、脚本にはクレジットされていません。しかし彼の作品において、それぞれの作品に添加されている、スピルバーグ節と呼べるような典型的モチーフは、実は原作小説には存在せず、映画化の際に監督によって加えられたものだったりします。

たとえばいま、手元に原作となった『激突!』の小説がありますが、小説だと冒頭のラジオの話や奥さんとの会話シーンは一切存在せず、ほとんどカーチェイスの話だけになっています。つまり軟弱化する男性や、奥さんにガミガミ言われる主人公といった、この映画の1つの主題を表している場面は、実は映画版だけのものなのです。

スピルバーグ自身もですね、脚本にはクレジットされなくとも脚本作業には参加すると言っているし、『ジョーズ』の脚本は当日まで現場で話し合いながら作られたものです。他にもたとえば『E.T.』などは、全体のアイディアやモチーフはスピルバーグが考え出し、主人公の少年エリオットや父親がいないことなどは、監督の少年時代がそのまま反映されていることなど、あちこちで話しています。

つまりこういった孤独でひ弱な男が、冒険を通じて成長するという、彼の多くの大衆映画に共通するスピルバーグ的要素には、監督自身の作風が反映されていると見ることができる。

他にも、たとえば「映画の主題であるモンスターが正体をなかなか見せない」というのは、ヒッチコックを換骨奪胎した「スピルバーグ節」の1つですが、『激突!』におけるこの要素、つまり敵のドライバーが全く顔を見せないのも、映画版ならではです。小説では主人公は、相手のドライバーの顔をカフェで確認しています。そこをあえて、一切顔が見えないように脚本変更しているのです。

つまりスピルバーグという監督は、面白い原作を上手く利用しながら、そこに自分のスタイルを上手くかぶせ、「スピルバーグ化」して映画化する監督である、と言うことができるのではないでしょうか。

作家はなぜ同じテーマを繰り返すか

それで、「ひ弱な男性」や「帰ってこない父親」など、彼の作品ではなぜ同じテーマが繰り返されるのか。それはもちろん、1つには「成長物語」が、彼の撮る大衆映画の1つの成功パターン、公式<フォーミュラ>となっている、というのはあるでしょう。スピルバーグ監督のキャリアを飛躍させてきた作品は、いつもこの「成長する男子」の物語でした。

しかし商業的理由だけなのかと言えば、そうとも言い切れない。これだけ何十年単位で同じテーマを何度も出現させるのは、やはりその作家にとって、そのテーマが生涯のテーマになっているからではないか、と考えるのが普通でしょう。作家には大きく分けて2種類います。それは同じテーマを何度も繰り返し掘り下げるタイプと、逆に一度挑戦したテーマを意識して避けて新しいことに挑戦するタイプです。

同じテーマに何度も挑むタイプの映画監督は、ハリウッドではスコセッシが有名でしょう。彼の作品のほとんどは「信仰」「ギャング」「自己愛」のいずれかがテーマとなっている。あるいはクローネンバーグ監督は、何かに病的に執着した人間が、得体のしれないおぞましいモノへ変貌していく、というテーマを繰り返しています。映画以外の世界では、たとえば小説家でいえば夏目漱石です。彼は三角関係の話を何度も書きました。そしてこういうテーマをループさせるタイプの作家は、大概、そのキャリアの初期から同じテーマに挑み続けているのです。

小説家でもミュージシャンでも、クリエイターの世界では大体なんでもそうですが、「作家は処女作品に永遠に挑み続ける」という傾向があって、それは何故かというと、その作家が作家として成功するまでに、その人をその人たらしめている要素というものが育まれているわけです。その強いこだわりを推進力として、その人は作家になれる。

だからスピルバーグの場合でも、『激突!』からずっと続く、「化け物に追い立てられた弱い男が覚醒して成長する」というパターンに、スピルバーグを作家たらしめた少年期の体験、つまり作家としての後天的宿命が強く影響しているのではないかと考え、それぞれの作品を繋げて考察するのには、大きな意味があると思います。

スピルバーグのトラウマと作家性

たとえばスピルバーグ監督は、実はディスレクシアという、本を読むことに困難を抱える少年で、親の都合で引っ越しを繰り返し、小さい頃はいじめられっ子だったそうです。さらに両親が離婚してしまい、自分から離れていってしまう父親像というものが、この『激突!』の、家族を家に残して出張していく主人公に反映されているのではないか、とも考えることはできるでしょう。それは先程話した、『E.T.』の不在の父親が、監督自身の父親の反映であることと同じです。

そういった監督の過去の苦悩から、男らしく子供を守る父親、あるいはいじめられっ子の成長というものが、監督の理想像として、彼の作品の中で映像化されているのではないか、という方向で分析していくことも可能なはずです。

少年の苦悩を永遠に引きずり続けるアダルトチルドレンであるがゆえに、ハリウッドの「永遠の座敷わらし」になり得た、このスピルバーグという大人の少年に、私は無限の賞賛を惜しみません。スピルバーグの正体が少年であることを見抜いたのは、当時はフランソワ・トリュフォーだけでしたが、それはまた余談です。

2人の巨匠を送り出した男

ちなみに、いまの話はスピルバーグの側から話をしたんですけど、実はこの原作小説を提供したリチャード・マシスンという人物が、ある意味ハリウッドの巨匠の黒幕というか。その後のスピルバーグ監督の宿命を作った、という部分もあるのではないかと、私は考えています。

なぜなら、スピルバーグ監督はこの『激突!』の成功をキッカケに、似たようなサスペンス映画を撮ったからという理由で『ジョーズ』の監督に抜擢されています。そして『ジョーズ』はスピルバーグの代名詞ともなり、その成功は『ジュラシック・パーク』に繋がっていきます。つまり『激突!』から、わらしべ長者的に「モンスターに追われる男」の映画を成功させていった、と逆方面から成功の力学を語ることもできる。

実はこの原作を提供したリチャード・マシスンという作家は、ただモノではありません。というのも彼は、現代のあらゆるゾンビ映画の始祖である『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(’68)の元ネタである『地球最後の男』(’64)の原作者でもあるからです。遡ればジョージ・A・ロメロは、マシスンの小説からゾンビ・アポカリプス映画の着想を得たのであり、つまりマシスンの小説は、ゾンビ映画の元祖の元祖なのです。

ということは、ということはですよ。マシスンの原作がなければ、もしかしたらその後の『ジョーズ』(’75)や『ゾンビ』(’78)も出現せず、ハリウッド映画の世界ではモンスター・パニックもゾンビ映画も流行らず、スピルバーグもロメロもなかったかもしれない。その可能性はないとは言えない。もちろんそうなれば、日本人の大好きな『シャークネード』も『バタリアン』も存在せず、オバタリアンという呼称も生まれなかった。一種のバタフライ・エフェクトですね。マシスンという偉大なる黒幕の名前は、記憶する価値が大アリでしょう。

『激突!』と『わらの犬』

ちなみにこの『激突!』のテーマについて考えるにあたり、奇妙な作品が1つあります。それは同年に公開された、サム・ペキンパー監督の代表作『わらの犬』(’71)で、この2作品は実は、根底にあるテーマや題材が驚くほどそっくりなんです。

『わらの犬』という映画は、インドア気質の数学者が都会を嫌って田舎に引っ越してきたものの、その引越し先で凄まじい嫌がらせや暴力に遭い、ついに内気な数学者の体内に眠っていた獣性が雄叫びをあげて、凄まじい暴力の応酬になるという映画です。

まずこの、メガネをかけた草食動物たる現代人の男性が雄として覚醒する、という筋書きからも、いままで説明してきた『激突!』との共通性は明らかですが、さらに「田舎に出ていったところを襲われる」という背景まで共通しています。共に傑作として語り継がれるこの2作品が、同じテーマで同じ年に出たことには、同時代的な要素が強く出た結果とも言えるでしょう。ついでに先日解説動画を作った『悪魔のいけにえ』(’74)も田舎で襲われる話で、74年の作品です。

70年代作品の共通性

一部のホラーファンからは、こういう系統の映画を「田舎ホラー」とか「田舎に行ったら襲われた系映画」と呼ばれ、その最大のヒット作は近年では『ミッドサマー』(’19)なわけですが、シャーロック・ホームズがいみじくも述べていたように、田舎という場所は、一見のどかで牧歌的ながら、実は権力の眼の届かない場所で、とんでもなく陰湿な犯罪が平然と繰り返されているのではないか、と言われたりします。

こういう田舎ホラーや男性の覚醒といったテーマが噴出してきた70年代前半なんですが、さらに同時代性という点で語るとですね、この『激突!』という、元祖煽り運転映画、まあ煽り運転というより“殺し運転”映画ではありますが、同じ71年に、こういった妄執を抱えた変質者を扱った映画の元祖として、イーストウッド監督が『恐怖のメロディ』(’71)という映画を出している。これは元祖ストーカー映画ですね。ストーカーという言葉がまだ存在しなかった時代のストーカー映画。こういったものも出てきています。ついでに言えば『恐怖のメロディ』はイーストウッドが初めてメガホンを取ったタイトルでもあり、元祖続きでめでたいんですが。

それで、今挙げてきた作品を全て並べると、70年代前半に「どうも世の中には、頭のトチ狂った奴らがウヨウヨしているぜ」というタイプの映画の、傑作や初期作品がズラリと並んでいる。今まで話してきたような、男性と女性、フェミニズム、田舎と狂人といったテーマが70年代作品の背景にあり、そういった時代性というものを意識して連続的に考えて観ると、また色々な発見があるかと思います。

長くなりましたが、今回の収録は以上です。ありがとうございました。

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投稿: 2020/10/19 ― 更新: 2020/10/21
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