『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は生存ではなく処刑の映画

2020/10/22 ・ 映画 ・ By 秋山俊

今回取り上げる、現代のあらゆるゾンビ作品の始まりと言われる、ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(’68)という映画だと、ある日突然死人が蘇って襲ってくるようになってきた世界で、数人の男女が1つの家に集まり、協力しあったり、仲違いしながらも、ゾンビの襲撃してくる夜を生き抜くという設定になっていて、ゾンビ映画の始祖にふさわしい、今から見ると非常にオーソドックスなサバイバルホラーになってるんですけど。

ホラー映画の変遷――思念から実体へ

この映画の何がスゴかったか、新しかったかについて、それはもちろん、ゾンビ三部作の解説動画で話したように、モダン・ゾンビの創造というのが新しかったわけなんですけど、これって単に「ゾンビが出てきたから面白い!」ってだけの存在じゃないんですよ。それだけだと話は半分で。ゾンビの出現によって、実はホラー映画の世界に巨大な地殻変動が起きていた、という点が核心であって。

どのような変化が起きたか。まず地殻変動前のホラーの中心がどんなだったかというと、ドラキュラみたいな古いモンスターが出てくるゴシックホラー調のものや、あるいは怨念とか幽霊だったんですよ。つまり昔ながらのお伽噺や怪談話の延長という中にホラー映画というジャンルがあって、都市伝説的というか、一部の人にしか見えないし、大勢の人は絶対遭遇しないものだった。

ところがゾンビが出現することによって、ホラーというジャンルの中枢が、それまでの悪霊とか呪いといった思念体から、ゾンビのような実体を持った怪異へと移行した。要するに、触れられる存在になったということですね。これが大変化だったわけです。

触れられるってことは、お互いにダイレクトに傷つけられるし、それは誰にでも確認できる現象であり、人間にとって今やホラー現象はパラノイアではなく、明確に災害なわけです。オカルト的なホラーは、科学の時代にはもはや斜陽であり真実味がないから、もっと近代的な怪奇現象にバトンタッチする必要があって、そういう見方をすると、ゾンビのような存在が出てくることには必然性がある。

そういう点で、ゾンビというのは非常に近代的なモンスターであり、変な話ですけど、科学の時代のモンスターと言える。仮に18世紀にゾンビが出てきても、ゾンビというのは霊魂が動かしてる、みたいにしか説明できないから、結局心霊現象の一部にしかなれない。ゾンビが純粋な化け物でいられるのは、脳科学とかウイルス研究といったサイエンスが背景にある、と言える。

まあ1973年に『エクソシスト』が出てきて、再びオカルトブームが活性化するんですけど、70年代後半から80年代にかけては、ホラー映画界はゾンビが席巻することになります。

生存者たちを生存させない映画

とりあえず前置きはこれくらいにしておいて、映画本編の話に移ると、この『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ってよく考えると、ゾンビ映画として色々と異質な部分があるんです。特に登場人物たちに関して。それって何だと思いますか?

この映画では、生存を目指す人間は計7人集まるんですけど、この面子って後のゾンビ映画に比べると明らかに偏ってるんですよ。その偏りというのはですね、「登場人物がほぼ頼りにならない」ということです。

黒人のベン以外、頼もしい人が1人もいない。そして、これはたまたま弱い人物が集まったわけではなくて、弱い人物が集められたという部分に、この映画の演出意図があるのだと言えるのではないか。

結論から言うと、この映画はハナから、登場人物たちを生きて帰す気などないという点が、続編と決定的に違う。ギリギリ、結末まではバラさない範囲で話すと、生存者はゾンビによって、ほぼ壊滅させられてしまうんですけど。そうなってしまうのは、この映画で集まったメンバーは生存を目指すには明らかに偏っていて、戦えない人間ばかりが集められているからなんです。

どうしてそう言えるのかというと、たとえば続編の『ゾンビ』(’78)ではSWAT隊員が2人いて、さらに他の2人も一応戦える。『死霊のえじき』(’85)でも、主人公チームの科学者3人は勇気もあるし戦闘もできる。ではなぜ続編では優秀な人材が集まっているのか。

それは『ゾンビ』も『えじき』でも、あるいは最近の『ワールドウォーZ』でも『バイオハザード』でもいいですけど、多くのゾンビ映画というのは、あくまで「主人公たちの生存闘争を描く物語」だからです。脚本としては「こいつらが果たして生き延びられるのか?」という、生存者目線で考えられてる。その結果、死んでしまう人物も出てくるというだけです。

ところが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では逆で、いやしくも絶望的状況下において生存を目指すという目標設定なら、到底救いようがないチーム編成になっている。『ゾンビ』や『死霊のえじき』のチームは「有志結集」という有様な一方、本作のチームはまさに「烏合の衆」と化していて、統制はほとんど取れず、女は発狂し男は争って内部崩壊を起こしていく。

(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

そしてさらにですよ、「登場人物たちは死ぬために集められた」ことの根拠は他にもあって。「ゾンビ3部作」は全作品、殺され役の人たちがラストで大虐殺されて、ゾンビの食人風景が見せ場になって終わるという演出上の共通点があるんですけど。つまり、虐殺が映画の見せ場とか、オチとして作られてるんですが、続編ではその殺され役は悪人であり、一方で、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では、殺され役が主人公たちになっているわけです。ゾンビによる大虐殺という「オチ」から全体構成を逆算すれば、もし本作の主人公たちを生かして残すつもりなら、代わりに生贄となる、主人公たちよりも、もっと程度の低い人間たちが用意されていならない理屈です。

以上のような事実から、本作では「生存者たちを、こんな惨たらしくて救いのないやり方で死なせてやろう」という無慈悲なゴールがまず設定されていて、そこから逆算して、死にそうな人物たちが集められていると考えられる。そこが続編とのチーム編成の決定的な差で、死ぬためのチームとなっている。

地下に潜んでいた親子などは、まさにチームを崩壊に導くための爆弾。生存者たちの死に方はみんな救いがない。ある者は愛する者の手で地獄に引きずり込まれ、またある者は勇敢に振る舞った挙げ句に頓死する。よく考えると、実は赤の他人のゾンビに普通に殺されてる人は、最初のバーバラの兄だけで、あとはみんな無残で皮肉めいた死に方をしている。

そういう点から、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』という映画は、実はサバイバルに偽装した殺戮ショーだと見なせるわけです。生存者たちが生を掴む瞬間にクライマックスがあるのではなく、死ぬ瞬間にこそクライマックスがある。「必死で戦ったのに、こんな救われない死に方を迎えた」というショッキングを味わう映画なわけです。だから登場人物たちが有能である必要がない。たまたまこの面子が揃ってしまったという、物語世界の「偶然」の根底には、ロメロという残酷な神の悪意がとぐろを巻いているわけです。

主人公たちが殺され役という点では、先日解説動画を作った『悪魔のいけにえ』(’74)にも似ている。あの映画でも、レザーフェイスによる殺戮がメインであって、やってくる若者たちはまさに生贄でしかない。こういうのを、処刑映画とか皆殺し映画と呼んでもいいかもしれない。

ラストの殺戮シーンで、人肉を貪るゾンビを映しながら、ロメロ監督は鼻息荒く力説してるわけです。「人間ってこんなに自滅的で救われない存在なんだぞ」っという具合に。そういう、人間の自滅のベクトルを使って、主人公たちが自ら破滅に突き進んでしまう、マイナスの脚本を書くというのが、ロメロという作家の特徴だと思います。

ダメ親父の魅力

そういうロメロ作品に必ず出てくる、人間の自滅的性分や業の深さを象徴している存在が、作中では中年男性のハリー・クーパーという人物で、そしてやはり人間の弱さを体現する彼こそが、キャラクターとしては一等面白いポジションにいる

クーパーは、ほかの人が襲われているのを知ってたのに地下に隠れてて、他の人と意見は対立するし、協力して戦っているときもずっと挙動不審なダメ親父です。ものすごい自己中心的で、裏切る気配しかしない人物なのに、彼は物語世界において際立って印象的です。

(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

クーパーみたいな危険人物がなぜ面白いかというと、1つにはもちろん、彼の弱さに人間の本質を見るというのもありますが、いま1つには、「一番物語を動かす人物だから」でもあります。彼みたいな不安要因がいないと、みんな一致団結して頑張って防衛するだけで、サスペンスがなくなってしまう。でもクーパーは、ベンに対抗して物語を揺さぶるから目が離せません。黒人のベンが主人公だとすれば、クーパーは裏主人公。

しかも、なるべくボカして話しますけど、結局ダメ親父に見えたクーパーの選択が、最終的に正しかったという皮肉があるわけでしょう。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の脚本の巧妙さはそこにあって、すべてがどういうわけか裏目に転んでしまう、ひねくれた脚本が実にロメロらしい。トラックで外に出たことも、娘を救おうとしたことも、最後のシーンもそうです。人を救おうとして死ぬ、勇気ある決断をして失敗する。そして実は正解は消極的防衛だったというオチ。勇敢あるいは倫理的な選択をするから救われるなんて幻想だ、というアンチテーゼ的な結末。

(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

この人間に対するシニカルな視点というのが、ロメロという反骨親父の特色の1つでして、それは「ゾンビ新旧3部作」や、それ以降の彼の作品でもずっと描かれている。「人間ってこんなどうしようもないエゴイストで、だから自滅していくんだぜ」という、人間讃歌ならぬ人間挽歌、レクイエムが、彼の作品の通奏低音としてずっと響いてる。

ロメロのタイトルセンス

こういう風に、ロメロという監督は、娯楽であると同時に退廃的な脚本も自分で書ける人で、スゴイ監督なんですが、話作りは上手い一方で、切れ味鋭いキャッチコピーを考えるのがどうも苦手という弱みがあります。

たとえば『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』も、最初は『ナイト・オブ・ザ・アヌビス』とか『ナイト・オブ・ザ・フレッシュイーターズ』とか、なんかポカンとした感じのタイトルだったらしいんですけど、配給会社がそれじゃ売れんということで、リビングデッドに変えたんだそうです。これはすごく良い変更だし、ある意味、歴史を変えました。「フレッシュイーターズ」だと、多分タイトル見ただけでスルーされるから。あえてB級っぽく日本語にするなら「俺たち肉食系」みたいな感じでしょうか。

ロメロのゾンビなのに走る?

そういうわけで、タイトルは「リビングデッド」になったんですけど、実際にはTVのキャスターとかはずっと化け物のことを「グール」と呼んでいるんです。ちなみに日本だと、続編の後に公開されたので「ゾンビ」と訳されてます。リビングデッドなのかグールなのかゾンビなのか、呼び方が一貫していません。

有名な話ですけど、ロメロ自身は最初、この動く死体は「自分オリジナルのグール」だと思っていて、でも観た人によって「これは新しいゾンビだ」と解釈されたんですね。ロメロは別に、俺がゾンビの概念を一変させてやるとは思ってなくて、でも結果としてゾンビの新バージョンとして認識されたから、続編ではゾンビと呼ぶようになったという、逆輸入の経緯がある。

(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

で、このロメロのゾンビなんですが、本作だと呼び名も一貫していなければ、キャラ設定も一貫していません。よく見るとこの映画のゾンビは少しおかしい。特に最初に墓場に出てくるファーストゾンビがことさらにイレギュラーな存在で、なんとこいつは走ってしまう。ロメロはその後「ゾンビは走らねぇんだよ」と力説してるのにですよ。走ると言っても小走りという感じなんですけど、とにかく走ってしまう。まあ漫画とかでも、あるキャラの初期の言動というのは、設定が固まってくると後々なかったことにされるのと同じですね。

これは監督のコメンタリーを聴くと分かるのですが、墓地に現れたゾンビが、たった一匹でバーバラを追い詰めないといけなくて、ノロノロしてると追いかけられないから、「走れ」と指示されたらしいです。とにかく予算のない自主制作映画ですからね。また話を注意深く聴いていると、ベンが、トラックに追い付いてきたゾンビの話をしているんですよ。やはり本作のゾンビは健脚だったらしい。

しかしこのファーストゾンビは、さらなる問題も抱えていて、なんと知能も通常より高いんです。バーバラが車に逃げて、窓ガラスが割れないとみると、すかさず石を拾って叩き割ろうとしてくる。さらに一軒家へ逃げ込んだ後も、車のライトを破壊して暗闇を作るという知恵を働かせる。

ゾンビの設定については、他にも宇宙から降り注いだ放射線が怪しいのではないかという話が出てくるんですけど、同じ世界観を共有する以後の新旧3部作だと、この説は完全に捨てられて、原因は分からんがとにかく死人はゾンビ化するんだということになる。

こういった矛盾点などから、この時点ではゾンビの設定がまだ十分に固まったものではなかったことがわかります。

(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

既存の価値観への挑戦

次に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の映画史における役割を話したいんですけど、この映画は当時、深夜劇場とかドライブインシアターでしか上映されなかったのに、大ヒットになって、インディペンデント映画の初期の成功例でもあるんですが、さらに黒人が主人公である点、カニバリズムという強力な暴力性、タヴーへの挑戦、ゾンビの不条理性、壮絶な結末を迎える点など、実は同時代のニューシネマ的な革新性をほとんど兼ね備えている。

あくまでピッツバーグで製作されたインディーズ作品なので、ニューシネマ、つまり本国で言うニュー・ハリウッドには該当しないでしょうが、『俺たちに明日はない』(’67)の翌年の作品でもあり、作品精神的にはとてもニューシネマ的な要素を持っています。システムへの反抗とかベトナム戦争批判とか、全て含んでいる作品です。

ニューシネマの定まった定義は存在せず、人によって異なりますが、中核的な部分は「アマチュアリズム」と「既存の映画文法やシステムへの反抗」だと思っています。世界各国の、フランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を受けたニューシネマと呼ばれる流れ、ドイツのニュー・ジャーマン・シネマとか台湾ニューシネマとか、共通性は全てそこにある。

映画業界の常識をぶっ壊すというのがニューシネマの中核なんです。その反骨的なスピリットの表象として、アメリカでは血まみれの暴力とかアンチ・ハッピーエンドという傾向が生まれた。そういう点では、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は立派にニュー・ウェーヴの一部と見なせます。

たとえば黒人のベンが優秀で、頭もよく、逆に白人キャラがことごとく足手まといというのは面白い。アメリカ映画で黒人が先頭に立って白人のシリを叩くことの凄さは、ニューシネマを代表する映画の『卒業』(’68)で、ユダヤ系のダスティン・ホフマンが主役に抜擢されたのにも通じるところがあります。

このベンが活躍する様子は、観客の一部には公民権運動と結びつけて解釈されるんですけど、ロメロ自身は、公民権運動は意識していなかったとコメントしている。

ついでに言うと、そもそもオーディションの段階では黒人を選ぶ予定は特になく、また物語の中でも、ベンは最初は無学なトラック運転手の設定だったのに、やってきた俳優が聡明な感じで、脚本も自分で書き換えながら見事な演技を見せたので、最終的に「優秀な黒人キャラ」という、ロメロ映画の定番ポジションに収まったという逸話があります。

ヒロインたちの進化

別の登場人物についても語りましょうか。クーパーが実は良いキャラなんだという話をしたじゃないですか。ああいう人物はバランスが難しくて、微妙なラインを超えないようにしないと、単なる嫌われ者になってしまうと思うんですけど、そういう点でいうと、ヒロインのバーバラは、人によってはラインを超えている感じがする。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のレビュー投稿を読んでいても、バーバラが不快という感想は結構見る。叫びすぎるし、役に立たなすぎるから。「天衣無縫の役立たず」とでも申すべき存在です。ただホラーだと、絶叫要員が必要というのもあるので、必要悪なところもあるんですけど。葬式に雇われる泣き女みたいな。ゾンビ3部作のヒロインを比較すると、時代を反映して、作品が進むにつれて女性が強くなり、3作目のサラに至っては男性より強い存在になってしまうのが面白い。

“if”としてのリメイク版『死霊創世記』

ロメロの相棒であるトム・サヴィーニが監督として90年にリメイクした『死霊創世記』の方では、バーバラが信じられないほど優秀な戦士と化していて、むしろベンより優秀かもしれない。その流れには、『エイリアン』のリプリー以降に増えてきた、戦うヒロイン像というのもあります。実際、サヴィーニはインタビューの中で『エイリアン 2』に影響を受けてバーバラをデザインしたと明言している。

そんなわけで『死霊創世記』は、バーバラが優秀だし、オリジナルへの深いリスペクトが感じられるし、カラーにもなっているんで、伝説の作品のリメイクとして珍しく評価されている、稀有な作品になっています。

オリジナルの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』には、誰の言うことを信じて選択肢を選ぶかという、アドベンチャーゲームのような要素があったわけですが、リメイク版だと原作とは違う選択肢を選ぶ場面があるんですね。そういう部分で、あそこで違う選択を取ってたらどうなっていたかという、運命の分岐点のifを楽しめる映画でもある。

「最終版」について

最後に、解説動画の方では時間の都合で話せなかった『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 最終版』について話すとですね。これは本国の方で、30周年記念として作られたバージョンですが、内容はハッキリ言って酷いです。

なんか変な牧師が新キャラクターとして、物語に関係ないところで一人で登場するシーンが追加収録されているんですけど、なんかこの牧師が、私が噛まれても無事だったのは信仰があったからですとか話すだけの、宗教の宣伝みたいな内容で、完全な蛇足だと思います。

この最終版で追加収録に携わったのはルッソという、オリジナル版でロメロと共同で脚本を書いた人なんですが、この人はどうもゾンビを完全にビジネス道具と見なしているようで、ゾンビ関連の書籍などを濫造したようです。この最終版に関しても、ゾンビファンからは「モナリザに落書きしたようなものだ」と大不評でした。

そもそも、信仰のおかげで大丈夫だったみたいなシーンが挿入されると、ロメロ映画の特徴である不条理とか絶望といったテーマが狂うので、論外だと思うんですが。これから観る人は、是非ノーマル版を観てください。ちなみにこの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』という映画、製作の不手際で映画が最初からパブリックドメインになっちゃってたので、英語版はネットの動画サイトでも問題なく観られます。

そんなわけで今回は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』について、ゾンビが出てきてホラー映画の性質が変わったという話、主人公たちが死ぬために用意されているという話、ロメロのゾンビが最初は設定が今と違う話などをしました。ロメロのゾンビ映画については、新旧3部作の他の作品についても、ぼちぼちラジオで、解説動画とはまた違う角度から語っていこうかなと思ってます。今回は以上です。ありがとうございました。

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投稿: 2020/10/22 ― 更新: 2020/10/23
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