ロメロ映画は何がスゴかったのか?「ゾンビ初期三部作」動画解説文字起こし

2020/10/08 ・ 映画 ・ By 秋山俊

ジョージ・A・ロメロとは

ジョージ・アンドリュー・ロメロ。ゾンビ映画の開祖であり、その影響はゲームや小説など、あらゆる分野にまで及んでいる大監督である。しかしあまりにも時間が立ち過ぎたために、現在では「ロメロのゾンビ映画の何が新しかったのか」が分かりにくくなっており、また風刺や社会批判を盛り込んだ、ただのアクション映画ではない内容は誤解されがちである。今回はそんなロメロの映画の「何がスゴかったのか」「どこが面白かったのか」を、彼の代表作「ゾンビ3部作」と共に徹底解説しよう。

第一作目『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』あらすじ

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、1968年に公開された白黒のホラー映画であり、ロメロが初めて監督した長編映画作品でもある

ストーリーをざっと説明すると、父親の墓参りにやって来た兄妹が、何気なく会話していたところ、墓場をとぼとぼ歩く不気味な男を発見。臆病な妹・バーバラのビビリっぷりに、有頂天になったお調子者の兄が「喰っちまうぞ~」と煽って遊んでいたところ、案の定この不審者、マジモンの化け物であり、兄の死亡フラグを秒速で回収。そのままバーバラにまで迫ってくるではないか。

最初のゾンビ(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

バーバラは人気のない道を走って、命からがら逃げ延び、無人と思われる家屋に逃げ込んだところ、なんと、家の住人は中で変死しており、外では先程の化け物に似た、ゾンビと化した人々が続々と集結し、家を包囲し始めていた。

仕方なくバーバラは、後から家にやってきた者や、物語の中盤で、実は家の中に潜んでいたことが明らかになった者たちと協力し、バリケードを築いて立て籠もる。さらにTV放送によって、この異常事態の全容が徐々に明かされる中で、偶然同じ家に集まった人間たちが、時に意見を衝突させ、反目しつつも、包囲された家からの脱出を目指すのである。

勇敢で体力があり、理知的な行動によってリーダーシップをとる、ロメロ映画に定番の「優秀な黒人キャラ」の元祖・ベン。この映画の実質的な主人公と言え、その性質は一言でいって「万能」<オールマイティ>。

黒人のベン(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

自由奔放に発狂と放心を繰り返すヒロインのバーバラは、ゾンビ映画における「役立たずヒロイン」の、原点にして底辺であり、ゾンビを前にしてもハネ回ることしかできない、サバイバルホラー界のコイキング。ゾンビ史に燦然と輝く「永遠のポンコツ女」である。その様子はあたかも、「絶叫製造機」<スクリーム・ファクトリー>。

決断力の鈍さに定評があり、一見仕事しているようだが、よく見ると大して役に立ってない、日和見主義のどっちつかず・トム。保有スキルは「トラックの運転」<ウーバー・ソウル>。目を離すと一瞬で裏切りそうな気配ムンムンの自己中で、「絶対背後を任せたくない男・オブ・ザ・ナイト」の座はリメイク版でも揺るぎない中年、クーパー。彼にどんな協力を求めようと、その声は彼のスキル「ハゲの不在証明」<サウンド・オブ・サイレンス>によって風の中に消えていく。

以上4名の主要人物たちに、若干のサブキャラクターを加えて生存を目指すサバイバルホラー、それが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』なのである。

さて、以上の概要を聴いて皆さんはこう考えるかもしれない。

この映画の何が革新的だったのか?

それについては次のように答えられる。

  1. ゾンビの設定がほぼ全て新しい
  2. ゾンビに世界中を覆われつつある終末的な世界観が新しい
  3. ゾンビ化する原因が不明で解明できない
ゾンビの集団(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年)

まず「1.ゾンビの設定がほぼ全て新しい」について。まず動画の中で、今まで当然のように「ゾンビ」という言葉を使ってきたが、実は現在のゾンビの概念はほとんどロメロのよって作られたもので、それ以前のゾンビとは性質が違い過ぎるため、今の我々が昔のゾンビを見ても、それをゾンビと認識できないほどである。

モダンゾンビ以前

そもそもゾンビというクリーチャーは、元々はハイチのブードゥー教の呪いによって使役される死体のことであり、1930年代のモンスター映画ブームに乗じて、映画界に輸入された存在である。当時は『魔人ドラキュラ』『フランケンシュタイン』などのモンスター映画の大ヒットにより、ユニバーサルが大量の関連作品を連発していた。この流れの中で、ドラキュラのような古くからあるモンスターではなく、観客が未だ観たことがない、新奇なモンスターが待望されたのである。

そこでハイチの伝説を下敷きにゾンビを造形した、1932年の『恐怖城 / ホワイト・ゾンビ』は、史上初のゾンビ映画と言われており、ゾンビパウダーによって、ゾンビにされてしまう美女を巡る物語である。

ところがこの映画のゾンビは、ロメロのゾンビとは全く異なる。『ホワイト・ゾンビ』におけるゾンビは「自我を持たない奴隷状態の生きた人間」に近く、死んだときの姿(仮死状態)のまま、一生コキ使われるただのヒトに過ぎない。

このようなクラシカル・ゾンビと比較すると、ロメロのデザインしたモダン・ゾンビの特徴が、緊張感を煽るサバイバルホラーのための設定として、いかに優れていたかが分かるだろう。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年

ゾンビと終末世界の合体

これに加えて、「2.ゾンビに世界中を覆われつつある終末的な世界観」を同時に持ってきたのがポイント。これは64年公開の『地球最後の男』という、全世界の人間が吸血鬼化してしまう映画が基になっているのだが、考えてみれば、ゾンビというのが局所的にポツンと数体出現するだけでは、大した脅威にはならないのである。

だから単に新しいゾンビを創造するだけでは、本来ご近所パニック的なローカルな怪奇映画にしかならない。しかし知能も特殊能力もないゾンビが、世界中で爆発的に増えたらどうか?このアイディアの優れた点は、世界中が動きの鈍いゾンビにジワジワ圧迫される恐怖を描ける点、そして予算が少なくとも、密室の中のTV放送によって世界スケールの事件であるように描き、どこにも逃げ場がない絶望感を出せる点である。

さて、ここまで説明した2点は、あくまでゾンビのキャラクターデザインの話だったが、ロメロ映画を理解する上で重要なのは、そのようなデザイン論ではない!実は「3.ゾンビ化する原因が不明で解明できない」という点こそ、他のゾンビ映画とは異なる、ロメロ映画のテーマやコンセプトを理解するための鍵なのである。

ロメロのゾンビ映画に共通するテーマ

ゾンビが発生する原因について、ロメロ以降のゾンビ映画では、もっぱら「ウィルス感染による復活」という生物学的な説明がなされるが、ロメロのゾンビは、劇中では放射能汚染説が有力視されるものの、結局は原因不明という点で一貫しており、ある時点を過ぎてから、世界で同時発生的に死者が動き出し、新たに死んだ人間も強制的にゾンビ化してしまう。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年

このことから分かるのは「ロメロの世界では、最終的にゾンビを根絶できない」ということである。原因がウィルス感染であれば、人類はウィルスと戦うことができる。人類対ウィルス、つまり「正義 vs. 悪」の争いと化す。だからこそ、他のゾンビ映画はアクション映画なのである。しかしロメロのゾンビは不条理の象徴であり、映画は一種の不条理劇として上映され、登場人物たちは根本問題を解決できない。人間がいる限りゾンビも発生し続ける。

「死んだ人間はゾンビになる。理由は分からないが、とにかくそれは絶対に変えることができない」という不条理がまず設定されていて、反撃自体が徒労で空虚なものと化している。つまりウィルスがゾンビを作るのではなく、ゾンビ自体がウィルスや自然災害のメタファーなのである。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968年

ゾンビを全滅させる映画ではない

不条理をテーマとすることによって、シリーズは以後、ゾンビをいかに根絶するかより、ゾンビ化した社会で顕になる人間本性や、ゾンビとは何なのか?ゾンビのいる世界でどう生きるか?といった思索や哲学を深める方向へ進んでいく。ロメロのゾンビ3部作とは、一種の「災害パニック映画」であり、災害時における「人間ドラマ」なのである。この点を押さえておけば、ときに「よく分からない」とも言われるロメロ映画の演出意図を理解しやすくなる。

とはいえ、この『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に関しては、ロメロ映画の中では最もサバイバルアクション寄りであり、ゾンビサーガ最初の一作として、広くオススメできる作品である。

さて、以上のような理解をした上で、いよいよ伝説のゾンビ映画である第二作目『ゾンビ』を紐解いていこう。

第二作目『ゾンビ』あらすじ

『ゾンビ』では、物語はいきなり混乱したTV局内部から始まり、その混乱の様子から、どうやら世界中でゾンビが大量発生していて混乱している現状が次第に伝わってくる。

混乱したTV局内部(『ゾンビ』1978年)

こんな状況にも関わらず、局内には視聴率を維持するために、古い情報であっても流そうとし続ける人間や、仕事を放棄して逃げ出す者が出現し、そんな中、天気リポーターだったスティーブンは混乱極まるTV局に見切りをつけ、恋人のフランを連れてヘリで都市部から脱出することを決意。同じく混乱する街で暴徒やゾンビを鎮圧していた、SWAT隊員のピーターとロジャーも仲間に加え、4人はヘリに乗って、どことも知れず旅立つのだった。

ヘリで上空を飛ぶと、街にはゾンビの群れに、それをレジャー感覚でハントする人間たちの姿。やがてヘリはゾンビに占拠されたショッピングモールへと辿り着き、このモールの最上階の倉庫部分が安全であることに気づいた4人は、ここを拠点にしてモールからゾンビを追い払い、中にある物資を独占する作戦を実行するのである。

ゾンビに占拠されたモール(『ゾンビ』1978年)

『ゾンビ』本編の大部分は、このモールにおけるゾンビ掃討作戦を描いており、ときにゾンビをおちょくったり、ときに軽くピンチになりながらも、4人は着実にモールを制覇して文明の遺物を独占していくのである。しかしそんな中、ゾンビに噛まれて致命傷を負ってしまうメンバーが出て、さらにモールの物資を付け狙う戦闘集団まで出現し、束の間の平穏は脅かされていく。

『ゾンビ』とは何だったのか?

あくまでゾンビとの村外れでの、小規模な局地戦に過ぎなかった『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に対し、『ゾンビ』では世界規模でゾンビがはびこり、「ゾンビに世界中が覆われ、人類が滅亡に向かっていく終末世界」という世界観を実現している。そういう、1つの確固たる新しい世界観を実現した点において、『マッドマックス 2』『ブレードランナー』などに並ぶ“世界観系”の映画と呼べる。

ロメロが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で0を1にし、『ゾンビ』で1を10にすることで、ゾンビは怪奇映画のいちバリエーションから、1つのジャンルにまで格上げされたのだ。

ゾンビの終末世界(『ゾンビ』1978年)

またこの映画では、単に恐ろしいだけでなく、モールを徘徊する個性豊かなゾンビたちの、生き生きと死んでいる様子、”生活”ならぬ”死に活”を克明に捉えて、徘徊するゾンビの振る舞いをスクリーンに描いたのも大きい。

モールを独占して高級腕時計を片っ端からつけ、無人のスケートリンクを独占し、ゲームセンターでタダゲーするといった、「世界が自分を残して滅亡したらどうするか?」という、誰もが一度は妄想したことを実行してしまう面白さが存在する。

『ゾンビ』はもはや「古い映画」か?

さて、この『ゾンビ』は、オールド・ホラーファンから絶賛を受けながらも、これを観た最近の人たちからは「これがなぜ伝説の映画なのか分からない」「緊張感が全くない」「安っぽい」と批判されることがあり、街中のTSUTAYAでは『ゾンビ』が棚に眠ったまま『IT』や『エスター』ばかりがレンタルされる今日このごろ。社会では今、「若者の『ゾンビ』ばなれ」が深刻な問題となっている。

しかしこうした『ゾンビ』に対する批判を読んでいて感じるのは、ゾンビ映画に対する以下のような認識である。

「ゾンビ映画とは、極限の緊張感のもとに、生存者たちが知恵とリソースを最大限利用して生存を目指す、サバイバル・アクションである」

確かにこのような定義のもとに『ゾンビ』を鑑賞すると、この作品は現在となっては洗練不十分な、古い時代のホラー映画と映るかもしれない。サバイバルのシーンは緊張感や絶望感に溢れているとは言い難く、ゾンビには怖さがあまり感じられず、全体的に緊張感に欠ける作りであることは否定し難い。

(『ゾンビ』1978年)

『ゾンビ』は人間を描く

しかしそもそも源流であるロメロ映画の側から考えると、現在の典型的なゾンビ映画というのは、ロメロのゾンビ映画からアクション性を抽出して洗練強化した、サバイバル寄りのゾンビ映画であって、ロメロのゾンビ映画はもともと、完全にサバイバルに特化した内容ではなかったのである。

ではロメロのゾンビ映画とは一体なんなのか?その深遠なる内容を一言で言い表すのは難しが、あえて言えば「人類とゾンビの対比の中に、“人間の実相”を見出そうとしたゾンビ映画」である。わかりやすく言うと、ロメロは映画を通じて、「人間とはこんな生き物である」というのを観客に“発見”させるのである。

たとえば「ゾンビの示す“無意味な執着”」というのは、多分に風刺的である。映画の中盤、ショッピングモールに意味もなく集まるゾンビたちを屋上から見たピーターらは「生前の彼らにとって重要な場所だったんだろう」と意見を漏らす。ゾンビに知性はなく、通常の食料も食べないので、彼らにとってモールはただの建物に過ぎない。

ショッピングモール――消費主義への批判

しかしそれでも生前の惰性からモールに集結してしまう彼らは、消費者の慣れの果てであり、それは特に必需品があるわけでもないのに、毎日のように買い物にくる人間と変わりがない。観客は「無意味に」モールに来るゾンビの動物的執着を笑う中で、実はそこに描かれているのが、消費者そのものの姿であることを発見してしまうのである。現代風に言うなら、ゾンビになったのにスマホを訳も分からず弄っている、というような状況である。

さらにゾンビたちが特定の“モノ”に対し執着するのも特徴的である。宝石を大量に身に付けているオバサン・ゾンビ、突きつけられたライフルを握りしめて離さなくなるライフル・ゾンビ。ゾンビが使えない道具に執着して何になるのか、と笑っていると、ゾンビを追い出した人間たちがモールで始めるのは、なんと現金の引き出し。

(『ゾンビ』1978年)

もはや役に立たない現金を手にしてポーズを決める男たち。また後半の強盗集団がモールを荒らした際にも、もはや何も映らないテレビを手にしてはしゃぐシーンなどが挿入される。

自分にとって無意味なものに執着し続けるゾンビと、消費の幻想を捨てられない人間で、一体何が違うというのか。

なぜ戦闘があまりシリアスでないのか?なぜふざけたムードを漂わせるのか?

それは、生存者とゾンビを消費者に見立てた“ブラック・ユーモア”が裏にあり、全体が“風刺劇”となっているからだと考えられる。

ロメロのゾンビ映画は社会派

このようにゾンビを人間の写し鏡として使う一方、「ゾンビは共食いしない」という性質が強調されていることも見逃せない。これによって、知性のない動物的なゾンビの方がかえって団結していて、平等であるという皮肉も演出されている。逆に滅亡の危機に瀕してもなお、人類はその優れた知性によって利権争いや主導権争奪に邁進し、同士討ちを繰り返し、黙示録の空の下でも自らの墓穴を掘ることに余念がない。

文明の悲惨な残骸を前にしたとき、我々は、知性をただ、自分たちを盲目にすることにしか使えなかった愚昧の人類史を呪わずにはいられない。実に、『ゾンビ』はただのホラーではなく、「社会派ホラー」なのである。

(『ゾンビ』1978年)

このような「人間と怪物の共通性」や「人間を滅ぼすのはゾンビではなく、人間自身である」というメッセージは、ロメロ映画の中に繰り返し現れている。たとえば『ゾンビ』の5年前に作られた『ザ・クレイジーズ / 細菌兵器の恐怖』でも、人間が細菌兵器により頭がおかしくなり狂人化する中で「狂った世界では、狂人と感染者の見分けはつかない」といったセリフが出てくる。動物化した人間の中に、かえってあけすけの人間本性を発見してしまう、という皮肉が込められているのだ。

さて『ゾンビ』には他にも、ヘリの上からゾンビハンティングに興じる、ベトナム戦争を思わせるシーンが挿入されていたりと、様々な風刺に満ちたブラック・コメディとなっているのだが、この映画はもちろん風刺だけではない。モールを占拠した4人組が楽しそうに遊び呆ける、心なごむ楽しいシーンや、トム・サヴィーニによる気合の入ったグロ描写も見どころである。つまり『ゾンビ』は、様々な要素を内包した総合的な人間ドラマなのである。

『ゾンビ』のバージョン問題

『ゾンビ』を語る上で避けて通れないのがバージョン問題である。何が厄介かというと、『ゾンビ』にはいくつもバージョンがある上に、「最初はこれを観れば安定」という決定版が存在しないのである。それぞれが完全に一長一短であり、初めて観ようとした人は逆に「選択のパラドックス」により選びきることができず、迷い抜いた末に、なぜか『死霊の盆踊り』を棚から引き抜いてくるという悲劇が後を絶たない。

さて、私が実際に始まりから終わりまで、きちんと鑑賞したことがあるのは以下の4バージョンであり、日本語で鑑賞可能なのもこの4つなので、これらについて解説しよう。それぞれの特徴はこうなっている。

  • 北米劇場公開版――ホラー重視
  • ダリオ・アルジェント監修版――アクション重視
  • ディレクターズ・カット版――長尺
  • 日本劇場初公開版(復元版)――独自規制のアルジェント版

まず初めて観る方は、基本的に完成度の高い「北米劇場公開版」もしくは「ダリオ・アルジェント監修版」の二択である。この2本の最大の違いはカットよりもBGMであり、北米版はホラーらしく暗い感じなのに対し、アルジェント版はゴブリンのサントラを全面的に使用して派手に鳴らす作りである。これに対し「ディレクターズ・カット版」は全体的に長ったらしくオススメできない。

4番目の日本劇場公開版は特殊で、これは残酷表現に自主規制をかけ、突然静止画面にしてしまうことで対象年齢を下げたものである。他にもオープニングに独自のゾンビ発生原因の説明が追加されたり、エンド・クレジットがカットされているという、アルジェント版の独自規制版であり、現在復刻版が名画座で上映されることはあるが、ソフト化されておらず自由に観ることはできない。

あまりにも別物なサスペリア版

なお日本独自のTV版である、通称「サスペリア版」というものも存在し、これはある意味、最も凄まじい“バージョン”である。BGMは勝手に差し替えられ、時間は大幅に短縮された上で、セリフが思うがままに書き換えられており、ゾンビの勝手な思い込み<徹底的な解釈>に基づく、二次創作的<独想的>な珍訳からの、ラストの「まかしときぃ」で締める流れは迷訳のほまれ高く、オリジナル版の「絶望の逃走エンド」を、創造的誤訳によって「オレたちの戦いはこれからだ!エンド」に異世界転生させた、テレ東の豪傑編集が生み出した時代の徒花である。

そもそもタイトルすら原型をとどめないほど変更されているその様は、まさしく訳りたい邦題<ヤリたい放題>。とは言え、今となってはゾンビのバージョン話をさらに盛り上げるネタになっており、ブルーレイなどに収録された吹替版ではラストの「まかしときぃ」が置き換えられてしまっているので寂しい限りである。「まかしときぃ」なきテレ東版は、福神漬のない日本カレーのようなものだろう。

さて『ゾンビ』に影響されて終末のゾンビ世界を描いた作品は数知れないが、皆さんはこう考えたことはないだろうか?

「ゾンビの終末世界が続いたら、人類はどうなるのか?」

そして、この問いに答えたのが第三作目『死霊のえじき』なのである。

第三作目『死霊のえじき』あらすじ

『ゾンビ』の描かれた世界からしばらく経った『死霊のえじき』では、人間とゾンビの数は完全に逆転しており、その比は作中の試算によれば、人間1人に対してゾンビが400,000人という、もはや人類の逆転は全く見込めない状況になっていた。

(『死霊のえじき』1985年)

この滅亡直前の状況において、主人公サラを始めとする人類の生き残りグループは地下に潜伏してゾンビの襲撃を免れ、かろうじて安全に過ごせる領域を保っていたのである。しかし地下の人間組織では、軍人と科学者にグループが別れており、軍事力を握る軍人たちが支配権を握って、ゾンビの研究や機械の制御のために、科学者たちを脅かしながら共存しているという状況であった。

科学者たちは軍人たちの協力を得てゾンビを生け捕りにし、その生態を研究して治療法などを探しつつ、救いの道を模索していた。しかしその中でもマッド・サイエンティスト気味なローガン博士は、必要とあらば兵士の死体をも実験に使い、さらにバブと呼ばれるゾンビを教育して知性を発達させるなど、過激な研究を続けていたために軍人たちとの緊張感が高まっていく。そんな状況下で、サラを始めとする科学者たちが「この世界で研究を続ける意味があるのか?」「黙示録の世界で人間はどう生きていくべきか」といった議論を行う。

主人公のサラ(『死霊のえじき』1985年)

“種”としての人類とゾンビ

ロメロのゾンビ・サーガのスゴイところは、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』から続く、時間経過による黙示録の世界の変化を、全て映像化してみせたところである。1980年代に、他のゾンビ映画が「ゾンビが出てきて、それに驚く人間たち」を描くことに熱中していた中で、既に「その先」を考え、ゾンビたちの発生、夜明けから、彼らが昼の世界を支配するに至るまでの、壮大な世界観を完成させたのである。

(『死霊のえじき』1985年)

さらに映画内で知性を見せ始めるバブのように、ロメロはゾンビを「ただ大量発生して人間を襲うだけの敵キャラ」とは見なしていない。ロメロにとって、ゾンビとは1つの新しい“種”であり、地球上のあまねく種族と同様、独自の社会を形成しながら進化していく存在である。

ゾンビ3部作というのは、実は人類とゾンビによる種族間の生存競争の物語であり、人類という種を圧倒したゾンビもまた、数を増すことでその社会を変化させていく。つまり地球規模での生態系の一部として人類とゾンビを描いており、20年後に公開された『ランド・オブ・ザ・デッド』では、本作のバブの発展型として、ゾンビを統括するボスゾンビすら出現するのである。

(『死霊のえじき』1985年)

『死霊のえじき』の弱点

作家としての創造性をいかんなく発揮したロメロによる、ホラー映画の枠組みを超えた壮大な構想。しかしながら、今作では製作にあたり、資金調達に問題が発生してしまったため、ロメロは仕方なく、当初の構想よりも規模を縮小した脚本を作ることになってしまった。

そのためゾンビとの大規模な遭遇シーンは映画の冒頭と終盤に限られ、映画全体を通して地下での人間同士の会話や衝突が多く描かれることになり、中盤まではさながら「ゾンビが襲ってこないゾンビ映画」と化してしまっていることは否定できない。また全体として地味な映画になっていることも事実である。

そのためロメロ・ファンの中にも『死霊のえじき』に対しては否定的な評価を下す人もおり、特に公開直後の批評では、『ゾンビ』までがあまりにも革新的過ぎたために、その地味な内容に失望する声が多かったようである。たしかにゾンビそのものより、終末世界自体がテーマとなっているような雰囲気もあるため、ゾンビ映画やホラー映画としては、やや見せ場不足だろう。

(『死霊のえじき』1985年)

『死霊のえじき』は密室劇

しかしそんな中でも、主人公のサラ、ローガン博士、軍人のローズはキャラクターがしっかりしており、彼らの論争や争いが、地下空間の窒息するような息苦しさや緊迫感を上手く演出している。そう、死霊のえじきとは密室劇であり、その中で繰り広げられる会話劇なのである。特にローズ大尉はシリーズでも最高に魅力ある悪人と言えるだろう。

また中盤に地下でジョンと交わされる会話では「膨大な情報や空虚な使命に埋没することに意味はなく、それより現在を必死に生きるべき」という提言は、情報に振り回されて慌ただしく生きる現代人に対する、監督からのメッセージとも解釈でき、ラストシーンでの決断にも繋がる、密かに重要なセリフである。『死霊のえじき』を鑑賞する際は、是非このシーンに注目していただきたい。

以上、長々と語ってきたロメロ映画の革新性と特徴をまとめるとこうなる。

反骨精神のカタマリのようなロメロのアバンギャルドを了解して鑑賞すれば、彼の作品はいまなお、「常に新しい映画」として楽しめるはずである。

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投稿: 2020/10/08 ― 更新: 2020/10/15
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