『悪魔のいけにえ』が表現する“悪”とは何か?解説動画文字起こし

2020/09/26 ・ 映画 ・ By 秋山俊

『悪魔のいけにえ』とはなにか?

『悪魔のいけにえ』は1974年に公開されたアメリカ映画であり、ホラー映画でありながら、ニューヨーク近代美術館にフィルムが永久保存されるほどの芸術性が評価された怪作でもある。

しかしその評価は人によりバッサリ分かれ、ホラー映画の最高傑作だと語り出す人もいれば、「チェンソーで切り裂かれたのはオレの千円札だ」と怒りのレビューを投稿する人もいる。(人もいる…)【エコー】

一体『悪魔のいけにえ』とは、どのような映画なのだろうか?

『悪魔のいけにえ』あらすじ

うだるような暑さのテキサス州では、得体の知れない墓荒らしが続いており、そんな中、テキサスに帰郷してきた5人の男女がいた。彼らが墓の無事を確かめ、その帰り道で薄気味悪いヒッチハイカーを同乗させたところから、惨劇は幕を開ける。

5人の車に乗せてもらった、あまりに挙動不審なこの男は、乗って早々、牛の屠殺に関する講釈を長々と垂れて、5人をウンザリさせてしまう。さらに車椅子のフランクリンから勝手にナイフを取り上げて、自分の手を切り始めるという異常行動を始め、続いてげらげら笑いながら、フランクリンに斬りかかったのである。

あまりの凶行に、5人は慌てて男を車外に放り出し逃走。投げ出された男は、しかし奇声を挙げながら車を蹴飛ばし続け、ドアに不気味な血のマークを残していくのであった。それは、メガネをかけた青年・ジェリーに言わせれば、殺害を予告するゾロの印であると言うのだ。しかし運悪くガソリンの給油ができなかった5人は、仕方なくサリーの祖父の空き家を利用し、休むこととなる。

恐怖を感じる事件はあったものの、大自然の中にある屋敷を自由に使える解放感から陽気になる5人組。そんな中、恋人であるカークとパムは、川へ泳ぎに行こうとして、奇妙な一軒家を発見する。

敷地内に何台も停めてある車に発電機の振動。この家にガソリンがあるに違いないと思ったカークは、パムが止めるのも聞かず、勢い余って家の中にまで入ってしまう。というのもこの家、玄関の窓から不思議な赤い壁紙の部屋が見え、それがカークの気を引いたのだ。剥製だらけの、見るからに怪しい部屋へ侵入するカーク。っと、足元のドアにつまずいてよろけた彼の目の前に、突如として謎の影が出現した。

そこにいたのは、肥満のボディにエプロンをつけ、その顔面を、生ける人間の皮で作られたマスクで覆った男、すなわち生け面<イケメン>であった。生け面は出会い頭に問答無用でカークを殴打し、彼は痙攣したまま家の中へと連れされてしまう。

一方その頃、家の外で彼を待っていたパムは待ちかね、ついに彼女もこの家の中へと探索に入ってしまう。そこで眼にしたのは、部屋中に配置された美術的とも言える剥製や、人骨で作られた家具の数々。慌てて逃げ出そうとするパム。しかしノコノコと迷い込んできた、この皮好い<カワイイ>彼女を生け面が見逃すはずもなく、おいしく拉致監禁<お持ち帰り>されてしまうのであった。暴れるパムに手を焼いた生け面は、肉用フックに彼女を生きたまま引っ掛けてダイナミックに後回しにして、失神しかける彼女の眼前で、彼氏をチェンソーでかっさばいて逝く男<イクメン>に仕立て上げ、泣き別れになった人体の無機質な平行移動を、夏の日差しが見守っていた……

この人間的尊厳を高らかに無視した屠殺的処刑方法から明らかなように、そしてヒッチハイクしてきた狂人の発言が、いみじくも先触れになっていたように、『悪魔のいけにえ』では、なんと人間たちが「家畜」へとおとしめられ、次々に「処理」されるという、おぞましい殺され方をしていくのである。

さて、ところ変わって残された3人は、夕方になっても帰ってこない2人を心配していた。ひとり探しに出かけるジェニー。しかし2人と同じ家をうっかり発見して侵入してしまい、見せ場らしい見せ場もなく、やはり死亡。

そして2人きりになったサリーら兄妹は、夜にも関わらず捜索に出てしまう。生け面の家の近くでうかつにも大声を挙げていたところ、暗闇から突然チェンソーがうなりをあげて襲い掛かり、徹底的に斬り刻まれて風通しがよくなりすぎたフランクリンの逝き作りからは、彼の魂さえも吹き抜けて、車いすを墓標に打ち捨てられてしまった。

とうとう1人だけになり、絶叫しながら逃げ出すサリー。チェンソーを振り回しながら追いかける生け面。ここから、田舎町を駆け回りながらのサリーの、永い永い絶望的逃走が始まるのである。絶体絶命の緊張感を伴いながらも、どこか滑稽なこの逃走劇は、本作のクライマックスの1つと言えるだろう。

『悪魔のいけにえ』はどんな映画か?と人に訊かれたとき、月光の下で、草原の中を、美女と生け面が狂走<おっかけっこ>する映画だ、と教えたとしても、なんら嘘を言ったことにならないのが、本作の恐ろしいところである。

さて、すったもんだした挙げ句、ついにガソリンスタンドに逃げ込んだサリー。そこで冒頭のおっさんに保護されて逃げ切ったと思われたサリーだが、どうもこのスタンドの様子自体が怪奇的なことに気づく。するとおっさんが戻ってきて、なぜかロープを片手に「心配いらないよ~」っと、村一番信用ならない剥き出しの虚言を吐きながら、サリーを縛って車に詰め込んでしまう。さらに家まで連れ去る途中で、例のヒッチハイカーまで車に乗り込んでくるではないか。

そう、実は彼らは生け面ことレザーフェイスの家族であり、彼らは人殺し一家だったのである。

こうしてとうとう殺人一家の晩餐会に連れてこられてしまったサリー。ここからレザーフェイス一家による酒池肉林の拷問パラダイスが、たっぷり15分間開催されるのである。

『悪魔のいけにえ』の魅力

さて、この救いのない『悪魔のいけにえ』という作品の魅力はどこにあるのだろうか?

映画の中心にあるのは、まず何よりレザーフェイスという連続殺人鬼のキャラクター的魅力である。この映画では、彼という独創的な狂人の異常性や猟奇趣味が、最大の興味関心の的となるように演出されている。『悪魔のいけにえ』の中心人物は、サリーたち5人の男女ではなく、このレザーフェイスであると言える。

人の皮をかぶった邪悪な巨体のエプロン姿は、いささか滑稽にすら映り、しかしその滑稽さが、むしろ彼の理解不能な悪魔的性質を際立たせ、あるいは残酷な殺人鬼でありながら、自身の部屋を屍で飾り立てたその意匠は、悪趣味でありながら退廃的な美を放ち、それが彼のような本性悪辣の、幼子のまま育った悪魔によって成されるから、かえって野生の芸術家による自然崇拝の工芸品を思わせる。つまりレザーフェイスというキャラクターの造形は、多分にコントラスト効果を用いており、「美」と「醜」、あるいは「狂暴」と「臆病」という対立要素が、絶えず双方を際立たせているのである。

もし究極に魅力的な猟奇殺人鬼がいたら、どんなやつか?という問いへの答えが『悪魔のいけにえ』には存在する。実にこの作品こそは、1つの悪の極致を描き出そうと試みた、悪の美学の実践であり、黒魔術の儀式<巨悪の生成試験>と呼べる作品なのである。こうして生まれたレザーフェイスは殺人鬼のアイコンの1つとなり、日本のマンガなどのサブカルチャーに対しても、今日においてもなお強烈な影響を残し続けている。

カリスマ的な悪の創造という点において、本作は1991年に公開された『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターに通じるものがある。あの作品の真の主役は、FBI捜査官よりもむしろハンニバル・レクターであり、かの作品こそはカリスマ的な猟奇殺人犯を、いかに映像化するかという実証実験だったのである。

フィクションによる悪の実験

そう、『悪魔のいけにえ』こそは、まさしく悪の実験である。映画好きの人間たちがこぞって「ホラー映画にこそ最先端の表現がある」と熱弁を振るうのは、なにも特殊メイクの話ばかりではない。人はどこまでも善くはなれないが、どこまでも悪くなることはできるのであり、この映画は人間倫理のどん底を描こうとしたのである。残酷や悪徳の追求には限りがなく、最善は高々天空止まりだが、最悪は地獄の底を突き破る。

たとえば捕われたパムが肉用フックに生きたまま吊るされるシーンにしても、その発想の残酷さはもとより、それをレザーフェイスが、あたかも帰宅したサラリーマンがスーツをハンガーにかけるかのような、何気ない所作で実行する様がおぞましいのである。他にもサリーが座らされる椅子は、肘掛け部分が人間の腕で作られていたりと、その悪意の追求はとどまるところを知らない。人体構造をそのまま調度品に用いた、そのグロテスクな造形美は、『エイリアン』のデザインで有名なHRギーガーに通じるものがあるだろう。

しかしこの映画に対しては、一方で、まるで評価しない人たちも一定数いる。次のような批判がある。「話の筋がない」と。『悪魔のいけにえ』に対するよくある批判とは、以下のようなものである。

「田舎にやってきた男女5人が、ただひたすら一方的になぶり殺されていくだけで、ストーリーと呼べるものはなく、悪趣味で、品性下劣に過ぎ、一切のカタルシスは略奪され、ただ監督が観客のしかめっ面を見てほくそ笑んでいるだけである。ヤマなしオチなしイミなし。私は上映後のトイレで、食べ残したポップコーンを捨ててしまった」

このような批判に対しては、次のように反論することができる。本作が表現しようとしたのは、事件という“出来事”ではなく、残酷や悪徳といった“概念”であり、話の筋の不在は本作の価値を下落させない。5人の男女が襲われることに必然性を持ち込まず、全て不幸な偶然で何の意味も持たせないことで、あたかも人間が道端のアリを無意識に踏み殺すような、宇宙が持つ本質的な不条理と虚無主義<ニヒリズム>が強調されている。つまり何ら意義を持たない物語こそが、1つの表現であり主張なのである。

また本作は、視覚的なスプラッター表現を極力排除している。実は作中で描かれるのは、悪趣味なオブジェと、残酷行為の素振りばかりであり、切断の様子は直接描写されない。それは低予算ゆえの戦略でもあるが、同時に安易なスプラッターに頼らないことで、観念的な恐怖を最大化しているとも言える。いささか大げさに言えば、『悪魔のいけにえ』とは「映像詩」であり、ホラー映画として翻案された『悪の華』なのである。

確かにホラーのスタンダードとなった本作は、模倣され過ぎたために、今見ると新奇性が弱い感は否めないが、様々な工夫に満ちた構成の美しさは、今なお古びないと言える。

この映画はいわゆる「田舎に行ったら襲われた」系ホラーの代表格であり、田舎ホラーとしては他にも『激突』や『ミッドサマー』などが挙げられる。田舎という後方のフロンティアには、未だに都会人には思いもよらない、おぞましい人間や慣習が、ひっそり存続しているのではないかという怪奇的興味がある。それが「さかしまの桃源郷」として、我々をなお惹きつけて止まないのではないだろうか。

ビデオ内での引用

「美の中じゃ、川の両岸がひとつにくっついちまって、ありとあらゆる矛盾が一緒くたになっている。…おそろしいくらいの秘密が隠されているんだ。…理性には恥辱と思えるものが、こころにはまぎれもなく美と映るもんなんだよ。…美の中じゃ悪魔と神が戦っていて、その戦場が人間の心ってことになる」

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

「美」と「醜」の表裏一体について。三島由紀夫の『金閣寺』にも同じような考えが散りばめられている。

この本を読むには、しっかりした論理、うたがう心、そしてそれらと同量の精神の緊張とを保っていてもらわないと、命にかかわるこの放射性物質は、水が砂糖にしみこむように、魂にまで滲透していくだろう。これからの頁をだれもが読むのは、よくないことだ。いくらかの人たちだけが、あぶないめにあうことなく、この苦い果実をあじわえる。だから臆病な魂よ、こんなだれも行ったことのない大陸の、おくふかくまで踏みこまないうちにひきかえせ。ぼくの言うことをよく聞くのだ。進んでしまわないうちに、ひきかえすのだ。

ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』

反道徳的なコンテンツを味わおうとする人間への警告文。

その結果『悪魔のいけにえ』は人間の持つ嫌な部分、それも救いようのない残虐性を極限的に描いていて、だからこそ画期的な作品になっています。主人公の若者たちの救いを求める心、逃げようとする頑張り、希望みたいなものは、徹底的に打ち砕かれてしまう。反道徳的なものをそこまで映画で突き詰めるのはあきれるほど凄いことだと思うし、音楽にたとえるならこれぞ「ロックだ」となるでしょう。ロックの原動力として社会や政治、さらには時代に対するリアルタイムの反発があるのは今さら言うまでもありませんが、この映画が作られた一九七〇年代には特にその傾向が顕著でした。だから『悪魔のいけにえ』にも既存の道徳観だとか、そういう時代の良識を打ち砕こうとすることが、作る側の

荒木飛呂彦『荒木飛呂彦のホラー映画論』

ジョジョの作者の熱弁。

そして天は、堂々たる死骸が花のように
咲きほこるのを眺めていた。
鼻をつく匂はあまりにも強く、草の上に
あなたは気絶せぬばかりだった。
蝿が唸りを立てて舞うこの腐敗した腹の中から
真っ黒な隊伍をなして繰り出す
蛆虫どもは、この生命ある襤褸を伝って、
濃い液体のように流れていた。

ボードレール『悪の華』「腐屍」

大学の仏文時代に翻訳して「この箇所は美しい」と意見を述べたら、教授にしかめっ面された箇所。

ロンドンのどんなにいかがわしい薄汚れた裏町よりも、むしろ、のどかで美しく見える田園のほうが、はるかに恐ろしい犯罪を生み出しているんだ。

シャーロック・ホームズ

田舎にきてのん気なことを言っているワトソンに対するホームズの真実を言い当てた言葉。

10:26あたりに挿入した感想

今回ビデオを作るために鑑賞し直したんですが、やはり良かったですね。

この作品を、もはや古典的になり過ぎて味気ないと言う人もいるんですが、私はそんなこと全然ないと思います。もちろん、現代的な美しい画面とか、派手な仕掛けを期待するとつまらないかと思いますが、この『悪魔のいけにえ』には、模倣され尽くされた後になっても、なお様式的な美とか、優れた短編小説のような、一切無駄なく流れてパッと終わる歯切れの良さがあります。なにしろ83分しかありません。編集作業をしながら思わず3回も観ました。この短い時間に印象的なシーンが次々にやってくるのが、コース料理のような味わいがあり、鑑賞後の後味はまるで19世紀の怪奇小説のような血まみれミント。

もちろんメイン料理はレザーフェイスで、あの、いかにも重量がありそうな金属製のドアがドンッ!と閉められた瞬間、思わず画面の前でシビれてしまうのです。あれによって、外界とレザーフェイスの解体場は完全に遮断され、中に連れ去られた青年が、もはや絶対に生還することができないという絶望に覆われます。あの登場シーンが観たくて繰り返し再生してしまうのです。ほとんど動物園のパンダを観るような気持ちで観てます(繰り返し観るほどコメディに思えてくるのが本作の不思議なところです)。

疑似ドキュメンタリー風の、16mmをブローアップしたざらついた画面も良い。とにかく極端な超低予算であることを、ことごとく逆手に取って「作風」にまで昇華しており、レザーフェイスという伝説級の怪物まで生み出し、本当に奇跡のような作品だと思います。

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投稿: 2020/09/26 ― 更新: 2020/10/05
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