独創的な悪を作れ / 『悪魔のいけにえ』(’74)

2020/09/26 ・ 映画 ・ By 秋山俊

『悪魔のいけにえ』は、「猟奇芸術」とか「屠殺美術」とでも分類すべき、連続殺人鬼をモチーフにした怪談映画で、人によっては傑作となるし、あるいは全く意味不明の珍作とも映る。

この映画は、殺人鬼の潜む田舎町をうっかり訪れてしまった青年グループ5人が一方的になぶられ殺されていくばかりであり、全編が異常なほどの悪趣味で覆われていて、理不尽な暴力の嵐で、爽快な部分などカケラもない(図1)。

図1:事件に巻き込まれる青年たち(『悪魔のいけにえ』)

したがって、映画で語られる物語に何らかの説明とか、解決とか、カタルシスを求める鑑賞者にとって、主人公たちがいじめ抜かれただけで終わってしまう、不発感の漂う内容で、騙されたように感じるのも無理はない。

しかし『悪魔のいけにえ』の本分は、あくまで蒸し暑い夏の夜に語られる類の「怪談」なのである。実際、映画内でも日差しの強さがずっと強調されている。そして「怪談」は、絶望と恐怖をひたすら煽って聞き手を怖がらせるのが役目であり、悪魔を撃退して武勇伝に仕上げる責務など、全く帯びてはいないのだ。

そして本作は、通りいっぺんの怪談ではなく、その話の中で究極の猟奇殺人犯のキャラクターを創造しようと試みた作品なのである。

究極の殺人鬼とは何か?まず間違いなく残忍で凶悪だが、ただ性欲にまかせて殺人に耽溺するようなチンピラではない。彼は当然、芸術家でなくてはならない。したがって殺した生物の骨を、まるで呪術でも行うかのように部屋に飾っている。しかし古臭いインテリ型の殺人鬼ではなく、むしろ人間的弱さを全面的に出した人物だ。したがって彼は肥満であり、知的障害者であり、自分の醜悪な顔を人皮で隠している(図2)。

図2:レザーフェイス(『悪魔のいけにえ』)

こうして誕生した殺人鬼・レザーフェイスと、その殺人一家の異常性をどこまで描けるか――それが本作の主題である。したがって一般的な怪談と同じように、ひたすらその狂気だけが掘り進められ、一見主人公的に見える5人の若者は、レザーフェイス一家の残虐性を表現するための純粋な生贄に過ぎないのである。この映画の真の主人公は、疑いなくレザーフェイスである。

この映画が芸術的である所以は、レザーフェイスのキャラクターデザインをはじめ、彼らの残虐が創造的な点にある。特に、後で殺すつもり人間を、牛を吊るすフックに生身のまま引っ掛けておいたり、捕えた女性の座る椅子の肘掛けが人骨で出来ている辺りなど、よくこんな悪趣味を映像化したと感心する(図3)。

図3:猟奇的でありながら、どこか美術的な雰囲気を含むレザーフェイスの部屋(『悪魔のいけにえ』)

倫理観の枷を外し、どこまで独創的に変態を表現できるか、という挑戦は、小説で言えばサドの『悪徳の栄え』や、あるいはSF奇書『家畜人ヤプー』などに見られた。あるいは、独創的でユニークな殺人鬼をいかに映像化するか、という挑戦としては、『羊たちの沈黙』(’91)のハンニバル・レクターが思い当たる。

『悪魔のいけにえ』は、一見いかにも低予算のチープなドキュメンタリー風を装っているのだが、その悪の美学美術の追求は徹底的であり、一途であり、数多くのフォロワーを生んだ。その見かけのチープさも含めて、総てが計算された演出であり、その正体は「安手のホラーに擬態した、真に貴族的な芸術映画」なのである。

満足度:9/10
(ただし模倣され過ぎて本家の内容が逆に典型的になったため、現在純粋に内容だけ比較すると8/10)

映画の記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿: 2020/09/26 ― 更新: 2020/09/28
同じテーマの記事を探す
関連記事
コンテンツ
文客堂について