『ロッキー・ザ・ファイナル』(’06) / 真の自己超克の物語

2020/08/20 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『ロッキー・ザ・ファイナル』MGM,2006

シリーズ6作目、それも前作から16年の間を開けて作られた続編が、初代に匹敵する感動を生み出すというのは、本当に稀なことだろうと思う。

引退して長くなるロッキーが、再びボクシングの道を歩む。それを演じるのはもちろん、シルヴェスター・スタローン。ハリウッドのアクション映画全盛期に世界的大スターとなったものの、90年代後半から人気が衰え、ヒット作に恵まれなくなったスタローンが再び『ロッキー』を演じるということで、一見すると典型的な「商業主義による復活続編モノ」。

ところがこの映画、実に真剣に作られており、過去の人気に甘えた同窓会的な雰囲気は全く無い。

『ロッキー・ザ・ファイナル』は本物の映画

その証拠に、シリーズにおいて欠かせない存在だった妻のエイドリアンがいきなり死んでいる(図1)。これは同窓会映画ではあり得ない。演じてきたタリア・シャイアが死去したわけでもなく、むしろ彼女は出演を熱望していたらしいが、それでもあえて死んだ脚本にして真剣の物語を書いたのである。

図1:エイドリアンの墓の前で会話するロッキー親子(『ロッキー・ザ・ファイナル』)

1作目の『ロッキー』(’76)が、無名の貧乏俳優のアメリカン・ドリームをそのまま体現した自伝的映画となったことを再現するかのように、スタローンは『ロッキー・ザ・ファイナル』を撮り、自身の復活を演出する。

スタローンは立て続けに『ランボー 最後の戦場』(’08)や『エクスペンダブルズ』(’10)でも主演と監督を努め、第二の黄金期を開始した。スタローンの撮る映像は素晴らしい。『ランボー 最後の戦場』でも見せた、闘いの場と記憶のフラッシュバックをモンタージュした、高速で流れる濁流のごとき映像の嵐は圧巻である(図2)。

図2:プロボクサーを俳優に起用し、実際に観客の前で試合をして本気で殴られながら撮影されたファイトシーンは圧巻であり、フラッシュバックする記憶やモノクロ演出など、映像としての芸術性もある(『ロッキー・ザ・ファイナル』)

引退と世間

本作では「ロッキーが強敵と闘うべく猛特訓する」という基本構成はこれまで通りだが、映画全体は「引退した人間の復帰」をテーマとしている。引退した老兵の「無謀な再挑戦」を引き止めようとする世間の圧力や後ろ指にどう立ち向かうか、という普遍的なテーマを描いているのである。

一度は脳のダメージから完全引退したものの、心配していた妻が死に、息子も独り立ちしたことで、ロッキーは再びボクシング復帰を目指す。ところがプロライセンス発行の体力的条件をクリアしたにも関わらず、委員会には却下されてしまう(図3)。

図3:去り際に委員会に反論するロッキー(『ロッキー・ザ・ファイナル』)

ロッキーは“彼のことを心配して”独自判断により発行拒否した委員会に、次のような言葉を残す。

あんたらは自分の仕事をしているんだと思う。でもなぜオレが自分のことをするのを止めるんだ?自分の成し遂げたいことのために、あらゆる困難を引き受けるつもりなら、誰に止める権利がある?

あんたらにも、何かやり終えてないことがあって、それをやりたくて、それでも自分の中に閉じ込めたままの“何か”があるかもしれない。でもそれをやるための対価を支払ったのに「やるな」と言われたら?そんなことを言う権利が誰にある?誰にもないのさ。

I mean maybe you’re doing your job, but why you gotta stop me from doing mine? ‘Cause if you’re willing to go through all the battling you gotta go through to get where you wanna get — Who’s got the right to stop you?

I mean maybe some of you guys got something you never finished, something you really wanna do, something you never said to somebody — somethin’! — and you’re told “No,” even after you pay your dues. Who’s got the right to tell you that? Who? Nobody.

『ロッキー・ザ・ファイナル』

ロッキーの行く手を阻むのは赤の他人だけではない。彼の息子も「笑いものになる」「僕が困るんだ」とロッキーの障害として立ちはだかる。現実でもむしろ、何かに挑戦する際には家族が壁となるケースが多いかもしれない。本作では、ロッキーがそのような「壁」や「疑問」に対して反論しながら、己の闘いを貫くことを説くのだ。

ロッキーにとっての「己との闘い」

ロッキーは別に、現ヘビー級チャンピオンを倒して王座奪還を目指しているわけではなかった。自分にとって大切なボクシング、やり残したボクシングをやり切りたかった。

ここでもまた、一作目にあった「己との闘い」というテーマがリフレインされていることが分かる。

最終ラウンドのベルが鳴っても立ったままでいられたとき、オレは生まれて初めて、自分がただの街のゴロツキじゃないって思えるんだ。

And that bell rings and I’m still standin’, I’m gonna know for the first time in my life, see, that I wasn’t just another bum from the neighborhood.”

『ロッキー』

一作目において、ロッキーが前日の夜にベッドで望んだのは「アポロに勝つこと」ではなく「最後まで立ち続けること」であった。何故ならこの闘いは、自分自身を救済する闘いだったからである。ロッキーにとっての「己との闘い」とは、よくある「プレッシャーに勝つ」とか「誘惑を断つ」という意味ではなく、「己を超克し愛すること」にあった。つまり自己肯定のための闘争だったのである。

ここに、紋切り的に使われる「己との闘い」との大きな違いがある。常套句として使われる「己との闘い」とは、誘惑や不安を断ち切って全力を出すための闘いであり、その最終目標は対戦相手の打倒にある。己という抽象的な闘争対象は、あくまで対戦相手という具体的な敵を倒す過程に存在する。

ところがロッキーは、文字通りに「己と闘い、超克する」という抽象的目標を究極としているのである。むしろ立ちはだかる具体的な敵の方が、その過程に存在するに過ぎない。

図4:判定負けも耳に入らず、抱き合うシーンが印象的だった1作目のラスト(『ロッキー』MGM, 1976)

だから1作目『ロッキー』(’76)でも、あの、判定結果に喜ぶアポロを尻目に恋人と抱き合う結末は「試合に敗けて勝負に勝った」というより、ただただ、彼が己に完全勝利したという結末であり、それで全てなのである(図4)。

『ロッキー・ザ・ファイナル』は、まさにこの信念の在り方を完全再現する。だからこそ劇場版の結末で完璧だと思うし、この結末こそまさに『ロッキー』という映画そのものを象徴しているのだ。

満足度:9/10

見どころ

  • 委員会との対決シーン
  • 息子との対決シーン
  • 「闘う中年」的な哀愁漂う特訓シーン
  • 最後のファイトシーン

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ロッキーシリーズは個人的に1 > 6 > 5 > 2 > 3 > 4の順番でおすすめ。全部楽しめる。

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投稿: 2020/08/20
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