『卒業』(’67) / 映像編集による恐るべき言葉の乗っ取り

2020/08/10 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『卒業』(C) 1967 STUDIOCANAL IMAGE

『卒業』を「青春映画」と定義することには、ちょっと同意できない。というのも本作は、そのタイトルが示す通り、大学を卒業した後の「ポスト青春」に訪れる無気力、堕落、そして迷走の話だからだ。

主人公ベンジャミンは大学を卒業後に、子供の頃から親しくしていたロビンソン夫人に誘惑され、関係を持ってしまう。しかし浮気相手の娘、エレインにも惚れてしまい、周囲から猛烈に罵倒される、という収集のつかない情事の話(図0)。

図0:夫人に誘惑される主人公(『卒業』)

さて、この映画は「物語」を語るための映画というより「映像」の技巧を楽しませるための映画である。だから「物語」の話はほどほどに、「映像」の話に移ろう。

『卒業』は編集で語る映画

映画には大きく分けると「ストーリー映画」と「カメラ映画」が存在するのだが(突っ込んで考えると全部カメラだと思うが、ややこしいので単純化する)、この映画は3:7くらいで「カメラ映画」に傾いた作品と言って良い。もっと細かく分けると「カメラ映画」には、カメラそのものの力で勝負するものと、編集技法(モンタージュ)で勝負する「編集映画」があり、この映画は後者に分類できる。

『卒業』が傑作と言われるゆえん、それは凝った編集による映像表現が100分間のあらゆる場面に散りばめられており、ただ物語を型通りに説明しているだけの映画にはない、「映像の新たな意味の発見」が次々に起こることにある。

そして次に「『卒業』の映像表現とはなんぞや?」という問いになるのだが、たとえば「遅延」の技法の使い方は分かりやすい。以下、本作の映像編集に込められた様々な技法を解説する。

「遅延」する映像

手始めに、ベンジャミンが夫人と不倫をし、ベッドに飛び込む場面を見てみよう。するといきなり「何をしてるんだ?」という父親の声が割り込んでくる。

ここで観客は一瞬、彼の不倫現場を押さえられたのかとヒヤッとするのだが、次のカットでは父親が太陽を背にして見下ろしている。ベンジャミンはベッドに飛び込んだ姿そのままに、プールの上にマットで浮かんでいる(図1-3)。

図1:不倫相手の上に飛び込むベンジャミンに続く父親の声(『卒業』)
図2:次のカットでは父親が太陽を背にしている
図3:実は飛び込んだときと同じ姿勢で寝そべる主人公に話しかけていた

ここで注目したいのは、異なる時間軸への繋ぎに映像的連続性が保たれてるだけでなく、編集によって父親のセリフが乗っ取られ、別の意味に置換されてしまっている点である。すなわち、この映像がカットされるタイミングが「遅延」され、先行する父親の音声が映像にオーバーダブされることによって、「何してるんだ?」は、全く異なる時間に不倫していた息子を責めるセリフとして、そっくりそのまま横領されているのだ。

乗っ取られるセリフ

各所に散りばめられる映像の「遅延」(あるいは音声の「先行」)と共に『卒業』の特徴となっているのが、このような「意味を乗っ取られるセリフ」である。

たとえば主人公が夫人に始めて誘惑される場面では、裸の夫人に驚いて階下に逃げてきた彼が、帰宅した夫と鉢合わせてしまう。ところがここで何も知らない夫は「君はマジメ過ぎるから、一度は女の子と遊んでみろ」という「助言」を彼に与えてしまう(!)のである。しかもまさにそのとき、夫人は二人の傍へ歩いてきている(図4)。

図4:『卒業』

ここで夫のセリフは、作り手の悪意ある演出と編集によって、その意味を乗っ取られてしまっている。全てを見ている観客とベンにとっては、なんと、夫が妻の目の前で「私の妻を寝取りなさい」と助言をしているようにしか見えないのだ。

映画を注意深く観ていると、このようなセリフの乗っ取りは随所に見られる。

退屈な卒業パーティーで、主人公へ唐突に投げかけられるセリフ「プラスチック」(図5)。「どういう意味です?」と聞き返すと「プラスチック業界には大きな未来がある」と、何気ない会話として成立しているように見える。

図5:『卒業』

しかしこの「プラスチック」という一見無意味なセリフもまた、続くシーンに「ベンの素晴らしい業績を読みます!」と騒ぎ立てる大人たちが挿入されることで、意味を乗っ取られている。そしてパーティーに集まる俗な大人たちを「無機質」「薄っぺら」と批判するメタファーとして解釈されるのである。

あらゆる意味は二重化される

メタファーを駆使した意味の二重化と言えば、見逃してはならないのが、劇中に繰り返し登場する自宅のプールである。なぜベンジャミンは問題を抱えるたびに、自宅のプールに逃げ込むのだろう?

それはプールという空間が、世間へ出ていけない主人公の逃げ込む胎内として機能しているからだ。

この「プール=胎内」という解釈を決定づけるのが、プールに浮かんでうつ伏せになるベンジャミンを囲って、両親が周囲をぐるぐる周りながら「ベンが恋人を作ろうとしない」と心配するシーンである(図6)。

図6:『卒業』

伏せたままのベンジャミンはまるで胎児であり、過保護にあれこれ話し合う両親は、お腹の中の赤ん坊の将来を話し合うかのようである。

こうして主人公は卒業後も自分のやることが決まらず、胎内願望を抱えたまま両親に見守られ、モラトリアムを延長しながら、特に乗り気でもない不倫を惰性で続けることになる。

このように本作ではセリフも場所も、あらゆる要素は二重の意味を持たされる。この映画は編集によって生まれる効果の見本市のような映画で、様々な表現者にとって手本となるだろう。実際に本作のような場面の繋ぎやミスディレクションを駆使しているマンガなどもある。

登場人物がぶっ壊れてる理由

最初に『卒業』は青春映画とは呼べない、と書いた。では何なのかというと、『卒業』はコメディ映画である。

そもそもこの映画は、まともな恋愛映画やヒューマンドラマとして解釈するには、登場人物たちがあまりにもぶっ壊れており、感情移入を受け付けない。しかしそれは、本作がぶっ壊れた狂人たちの暴走を描くコメディだからなのである。

コメディは映画全体を通底している。世慣れしないベンジャミンがホテルで大人たちに振り回されて右往左往する様子などはケッサクである。セリフの乗っ取りに関しても、「夫が妻を寝取るように堂々と助言してしまう」とか「父親が息子の不倫にツッコむ」といった滑稽の感を演出するコメディなのである。

しかし幸か不幸か、サイモンとガーファンクルによるテーマ曲「サウンド・オブ・サイレンス」があまりにも美しかったために、マジメな感動映画だと勘違いされ「恋愛映画だと思ったら気狂い映画だった」という感想が生まれるようになってしまったのである。

なおここで説明した本作の革新性はホンの一部である。他にもハリウッドでありながらユダヤ系のダスティン・ホフマンを主役に抜擢した点、カメラワークの目新しさ、大人の情事を明け透けに描いた点など、挙げればキリがないほどであり、アメリカン・ニューシネマの夜明けに相応しい歴史的作品になっている。

満足度:8/10

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投稿: 2020/08/10 ― 更新: 2020/08/11
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