『アド・アストラ』(’19) / 最も誤解された映画

2020/08/09 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『アド・アストラ』

2019年に『アド・アストラ』ほど誤解を受けた作品もないだろう。

「ブラッド・ピットの宇宙もの」というキーワードから想起されるような、分かりやすい娯楽SFではまったくない。『インターステラー』(’14)や『オデッセイ』(’15)のような救出ミッション系の感動SFでもない。SF映画としての文法やドラマツルギーを当てはめようとすると、本作は率直に言って駄作であるし、最後の展開など失笑ものだろう。

しかしそれはまるで、スパイ映画をラブ・ロマンスだと思いこんで鑑賞し「恋愛描写が薄っぺらい」と批判するようなものだ。

誤解を恐れずに言えば『アド・アストラ』はSFですらない。この映画がSFとしてまともに作られていないことは明らか(図1)。

図1:SFであってSFではない(『アド・アストラ』)

では『アド・アストラ』とは何か。

『アド・アストラ』とは「遠のいていってしまう人」を追いかける旅である。

宇宙空間とは、遠くへ行くことの比喩であり、寂寞たる心理のメタファーである。あえて分類すれば、この映画は「人探し映画」である。一般受けするはずもないしヒットを狙ってもいない。テーマが地味で人を選びすぎる。

遠のいていってしまう人

世の中には「いつの間にか遠のいていってしまう人」というのがいる。

手を引っ張って誘えば、別に嫌がるという風でもなくついてくるし、一緒に楽しい時間を過ごすこともできる。しかし少し眼を離してから振り返ると、その人はいない。団らんを避けて自ら孤独に突き進んでしまう。「なぜあの人は独りで離れていくんだろう」と周囲が言う。「遠のいていってしまう人」とは、周囲の仲間や家族より大切な「何か」を追い求めている人間である。

本作の主人公ロイにとって、宇宙飛行士の父親がまさに「遠のいていってしまう人」であった。自分の核心は決して語らない人。いつも遠くを見ている人(図2)。

図2:何も語らずに消息不明になっていた父親(『アド・アストラ』)

そんな、地球外生命体を探し続けて音信不通になった父親が、生きているかもしれない。自らも宇宙飛行士になったロイは、父親を探すミッションを引き受ける。

本作には会話が非常に少ない。ほとんどがロイのモノローグで占められる、極めて内省的な旅であり「文学みたいな映画」とすら言われる。旅の仲間もほとんどいない。サウンドは最小限。ロイはずっと孤独に旅をするのだ。父親が突然消えてしまったことや、ミッションのことについて「なぜだ、なぜだ……」と自問しながら。

しかしいくら父親に連絡を取ろうとしても、父親は応えてくれない(図3)。父親は物理的にも心理的にも、遥かに遠のいていた。だから彼を探し求めるロイも遠くへ、遠くへと進み続ける。気がつくと、地球から遥かに離れた空間へたどり着いている。

図3:息子のメッセージにも応答はない(『アド・アストラ』)

そうしてついにたどり着いた場所で、父親は「変質」していた。自分の知っている父親とはなにか違う存在になっていた。それは途中で見つけた宇宙船内の凶暴化した実験動物のように。あまりにも寂莫とした孤独な空間が、彼を変えてしまっていた。

そしてこの旅を通じて、ロイもまた、自分が別れた妻にとっての「遠のいていってしまう人」になっていたことに気がつく。ロイと父親は相似形であった。父親は「地球外生命体」という陽炎を追い求めて、家族を忘れた。地球を捨てた。そしてその父親を追って宇宙飛行士になったロイも、父同様になっていたのだ。

もはや帰る場所などない父親が、消えていってしまう際の絶叫。その孤独、その虚しさ。人が何も言わずに去っていくのはなぜだろう。

私は本作をIMAXで観たのだが、まだ1時間くらいだと思っていたのに、映画が終わってしまってびっくりした。2時間経っていた。良い映画を観たと思った。

満足度:9/10

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投稿: 2020/08/09 ― 更新: 2020/08/11
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