『コブラ』(’86) / 考えるな…感じろ…観ろ……

2020/08/06 ・ 映画 ・ By 秋山俊

いきなり申し訳ないのだが、『コブラ』というのは本当に「しょーもないアクション映画」なのである。

まず脚本は中学生がノートに書き殴ったような内容で、主人公の危険な刑事が悪党をぶっ殺して美女をバイクに乗せて去る、ただそれだけ。

また垂れたグラサンにタバコ、そして毒蛇の装飾(笑)の施された銃には「それ本当にカッコイイと思ってるの?」という痛ましさすら覚える(図1)。『ダーティハリー』(’71)を目指して型破りな刑事を主人公にしたらしいのだが、既にこの手のデンジャラス・デカが「型破りという名の型通り」な量産型・無法刑事と化していたので、型破りでも何でもない。さらに執拗に繰り返されるペプシコーラの挿入が、嫌でも「タイアップ」という現実をスクリーンに浮かび上がらせる。

しかし私はあえて「『コブラ』を観よ」と言いたい。

図1:『コブラ』

80年代の筋肉映画というのは「脳筋芸術」なのである。「ダサさ」と「ベタベタ」をポップコーンの箱に入れ、身体にわる~い添加物と塩分と糖分をドカドカ混ぜてフタをして、それを筋肉マッチョたちが秒間30回転でミックスさせた、資本主義社会の生み出した「観るジャンクフード」だ。

ここで重要なのは「突き抜けていること」。どこまでも突き抜けたバカ映画であること。その点、同年のシュワルツェネッガー主演『ゴリラ』(’86)は、下手にインテリ要素を入れて、小洒落た台詞回しをしようとして失敗した。

『ゴリラ』と『コブラ』の差はなにか?それは『ゴリラ』は途中から観ると話が分からなくなるが、『コブラ』はその88分間のどこから観始めても、何の支障もないということだ(図2)。

『コブラ』にストーリーはない。ただそこにスタローンが立っている。スタローンのスタンドアローン映画。

だから『コブラ』というのは、映画でありながらスクリーンで観るようなものじゃない。というか、こんな脳筋映画をスクリーンで観たら、スタローンが銃を撃っていない間にやることがないじゃないか。

図2:全編「80年代のスタローン的な何か」で構成されているため、ストーリーを知らずとも分かる(『コブラ』)

『コブラ』は、だからTVで観る。みんなで楽しく談笑しながらピザでも食べて、ときおり会話が途切れたときに、ふと横を見るとスタローンが銃を撃ってキメ台詞を吐いている。そして会話の空白を埋めてくれる。それでいい。

フランスでは会話が途切れて沈黙することを「天使が通った」と表現する。スタローンは天使なんだよ。サブマシンガンをぶっ放しながら沈黙に横切るヘルズ・エンジェルなんだよ。

『コブラ』と『ランボー / 怒りの脱出』(’85)を監督したコスマトスは、スタローンの最低にして最高のパートナーだと思う(図3、ちなみにどちらの映画も最低映画賞を取った)。コスマトスが監督した途端、孤独な男の葛藤を描いた『ランボー』(’82)は、途端に痛快ポップコーン映画と化した。

図3:コスマトス監督

コスマトスの下で、スタローンはチープに輝く。コスマトスは、スタローンから高尚さを剥ぎ取って筋肉の輝きだけを引き出す天才だ。

いいじゃないか、そういう映画があったって。『コブラ』も『ランボー / 怒りの脱出』もなかったら、スタローンという役者の幅はもっとずっと狭いものになっていたと思う。

満足度:6/10

映画の記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿: 2020/08/06
同じテーマの記事を探す
関連記事
コンテンツ
文客堂について