『小間使の日記』(’64) / 全員、変態

2020/08/05 ・ 映画 ・ By 秋山俊
『小間使の日記』

ルイス・ブニュエル監督の脚フェチっぷりが全開になってしまった映画。つまりいつも通りの芸術的変態映画に過ぎない。

パリから小間使として田舎町にやってきた、美人で気立ての良いセレスティーヌが、屋敷に住むブルジョアたちの様々な倒錯的実態を目撃する。主要人物が全員変態チックな趣味を持っており、しまいには少女を強姦して殺すやつまで出てくるのだが、そんな男たちの関心を一身に集め、彼らを間接的にではあるが破滅へ向かわせる主人公もまた、どこか極端な部分がありファム・ファタール的な魔性を秘めていると言えるだろう。

セレスティーヌを取り巻く変態紳士連中の中でも、取り分け屋敷で年長のじいさんは突き抜けた脚フェチぶりを発揮する。セレスティーヌに「わしの部屋にいるときだけこれを履きなさい」とブーツを渡し、無意味に部屋を歩かせてひたすら足下に注目していたり、腿をお触りしながら足を愛でたりする(下図)。

図:セレスティーヌの脚を、口実をつけて触りまくるじいさん(『小間使の日記』)

ここで「小間使にブーツを履かせて歩かせているじいさん」という役柄を通し、真正の脚フェチである監督自身が、主演のジャンヌ・モローにブーツを履かせて撮っているわけで、メタ的な視点に立てば、このじいさんは実は監督の分身なのである。これを撮るカメラの背後で、腕組みしたブニュエルが自らのフェティシズムを満たしているのかと思うと爆笑である。

監督の脚フェチはこれだけにとどまらない。その極致はなんと言っても、森で犯された少女の脚の上を、ナメクジがうねうねと進む様子をアップにして映した、衝撃の殺人シーンであろう。「少女」「強姦」「脚舐め」というタヴーの三位一体を成したこのシーンはノーベル変態賞ものである。

この場面は、日本が誇る変態紳士であった澁澤龍彦も生前に絶賛していた。まあ彼がブニュエルに入れ込むのも分かる。ブニュエルとサドは、作家としてのサガにおいて非常に似ているからだ(自分の性癖表現に異常に拘る、同じテーマを何度も繰り返す、発禁になってでもやる)。

生前に幾度もブニュエル映画を熱く語っていた澁澤龍彦(1928-1987)

『小間使の日記』は、家政婦サスペンスものである以上にフェティシズム映画なのである。

あくまで変態性の“描写”にばかり注力したせいで、直近の『ビリディアナ』(’61)などに比べると些かパンチに欠けるきらいはあるが、フェティシズムへの傾倒という点では他の追随を許さない。

ルイス・ブニュエル(1900-1983)

ブニュエルというと、シュルレアリスム的手法を駆使した芸術映画監督というイメージが一般的である。そして芸術映画というものは、裸の女が当然の如く街を闊歩するような変態的イメージを伴うものであり、変態性というのは芸術性に付随する性質と捉えがちである。

しかし他の監督が芸術性の中に変態性を内包して、変態的な芸術映画を撮るのに対し、この反骨精神のカタマリのような監督は、その巨大な変態性の中に芸術性を含んでおり、芸術的な変態映画を撮っているのである。だからブニュエル作品を「芸術的!」と称賛するのは主客転倒であって「変態的!」と称賛することこそが、誤解を生まないブニュエルへの評価と言えよう。

満足度:7/10

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投稿: 2020/08/05 ― 更新: 2020/08/06
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