漫☆画太郎論――ギャグ漫画芸術の極北、あるいは東洋のサド伯爵

「画太郎と芸術」これほど似つかわしくない組み合わせもない、と考える人も多いかもしれない。画太郎の作風はあまりにも破天荒であり、型破りという次元を超えてもはや、マンガをバカにしていると怒り出す人もいるほどだ。彼の作品内においてはストーリーが何度もやり直され、夢オチが当たり前のように濫用されて、ドラマツルギー云々といった方法論は彼の前では棒きれほどの役にも立たない。恐らく大多数のマンガファンにとって、画太郎作品は芸術性を放棄した、低俗で幼稚なタブロイド紙の片隅に載っているようなくだらない娯楽であり、一部のファンを喜ばせるために空虚なその場限りの作品を量産していると映ることであろう。

しかしそういった批判があることこそが、むしろ画太郎作品の芸術性の証左なのである。

何故かというと、芸術とは「美しいものを描くもの」でも「奇想天外なストーリーを伝えるもの」でもなく「絶え間ない歴史超克の運動」それ自体であるからだ。既存の方法論や芸術性に、常に「否」を突きつけること、これが芸術作品が芸術作品足るための、第一の資質である。手塚治虫が天才的芸術家であったのは、彼が「マンガ」の定義そのものを塗り替えたからに他ならない。このような作品を世に出せば当然「こんなものはマンガではない」と怒り出す人が出てくる。芸術作品の第一の試金石は、「こんなのは子供騙しのゴミだ」とか「冒涜的行為だ」と怒り出す人々の出現である。世の中の大多数にあっさり受け入れられる作品は、優れた作品にはなり得ても、芸術作品にはなり得ない。一方で大多数に否定される作品は、前代未聞の芸術作品か、単なるゴミのどちらかである。

現実とフィクションを完全に融解させる

画太郎の作品を見てみよう。例えば『星の王子さま』では最初こそ、ある意味「忠実」に原作の展開をギャグ化していったが、途中で画太郎が描くのに飽きてしまったのか、突然何度も「……というのは作家が見ていた夢であった」という夢オチが挿入され(図1)、その度に本筋とは全く関係ない「ババア」が全裸で作品内に乱入してきたり、画太郎がオナニーに革命を起こす性玩具について見開きで語ったりと、全く収集がつかない。

図1:頻繁に挿入される夢オチ

彼の作品はどれもこういった完全ナンセンスな、読者などまるで存在しないかのような、あるいは最初から誰にも見せるつもりのない原稿かのような構成になっている。一言で言えば、画太郎作品は完全なる作者の自慰行為であるかのように見える。作品は商業性を豪快に無視して、完全に画太郎の恣意によって暴走し続け、連載は最終的に打ち切られるのが常なのだが、自分の打ち切りすらギャグにしてしまう。

これこそがまさに、画太郎芸術の真髄なのだ。

彼のギャグはメタフィクションを超越した「リアル・メタフィクション」である。通常のメタフィクションでは、作品内の人物が作品が虚構であることを認識していたり、あるいは作者自身が物語に介入したりする。しかしメタフィクションもあくまで作品の方法論の中に「閉ざされて」おり、その活動が作品を直接的に破壊することはない。言い換えると、メタフィクションも所詮は作品を面白く見せるための技法の1つに過ぎず、その越境性は「作品を面白くしなければならない」という現実的(あるいは商業的)制約の中に限定される。メタフィクションに対して、もはや読者はすっかり安心してしまっている。コマの中から読者に語りかけてくるこの人物が、本当に現実を変えることはないのだ、と。

ところが画太郎の手法だと、キャラクターや作者の介入が、本当の意味で物語を木っ端微塵に粉砕してしまったり(図2)、最悪作品自体を打ち切りにしてしまう。彼のメタフィクションは現実を変え得るのである。さらに作品内部から作品の破壊が行われるだけでなく、時には作者自身も作品外部から、意気揚々と作品を破壊して見せてしまう。

図1:「トラックオチ」でストーリーを強制中断させる定番ギャグ

ここにおいて、現実とフィクションの境界は限りなく曖昧になり、2つの世界は融解と混濁を起こしている。いまやキャラクターたちは現実に影響を与え得るのだし、それは現実に存在することに限りなく近い。「画太郎がどこまで本気なのか分からない」という状態、まさにそれこそが他の誰も到達できなかったギャグマンガ芸術の新境地なのだ。

ギャグというものは普通、実際に目撃しないと面白さが伝わらない。ところが画太郎のギャグはとてもメタ的で、表現される以前の行為そのものが既にギャグとなっているため、話で聞いたりWikipediaの項目を読んでいるだけでも笑えてしまうという特徴がある。

自己破滅的ギャグ

彼のようなスタイルはしばしば「体を張ったギャグ」のようにも表現されるが、体を張ること――というより、もうほとんど命を賭けるに近い――は、芸術家が自らの作品を芸術たらしめ、永遠の生命を付与する際に用いる手段の1つでもある。文学界でいうと『歯車』や『人間失格』は、芥川や太宰が自殺したからこそ、その筆致に悪魔的現実性が宿っていることは否定できない。彼らが自殺しなければ、その作品を「メンヘラ作家の自傷行為」のように捉える読み手がもっと多かったはずなのだ。ところが彼らが自殺してしまったがゆえに、作品の真実性を軽んじることはとてもできない。死を賭したという究極の文脈を無視して鑑賞することは、ほとんど不可能に近い。つまり自らを狂気にまで追いやること、あるいは狂人として生まれることは、現実とフィクションの垣根を超えた芸術作品を生み出す1つの手段なのである。それを自ら望んだかどうかは問題ではない。

画太郎の前衛性を、彼の作った表紙からも読み取ってみよう。『ミトコンペレストロイカ』5巻の表紙では、いつもの「ババア」が書店にいる読者を高らかに挑発してくる(図3)。

お前あたいをレジに持っていく勇気ある?
あるわけねーか!!!
お前ゆとりだもんなーーーーーーッ!!!
ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャ

このメタフィクションの前衛的な点は、「関係ない客にまで画太郎漫画を“読ませて”しまうこと」「購買を挑発的に煽っていること」の2点である。これはまさしくフィクション世界から現実世界への、より具体的な侵食に他ならない。

図3:カバーイラストで読者を挑発する画太郎

また『罪と罰』においては、1巻のカバーイラストを別の作家に描かせ、あたかも名作の本格コミカライズを装うことによって、現実に読者を、本当の意味で騙してしまうことをも画策している(図4)。不幸にして勘違いから購入に踏み切った文学青年は、第一話を少し読んだだけで憤慨し、書店へ駆け込んで返品を求めるかもしれない。

図4:別人に書かせて擬態した『罪と罰』の表紙

この表紙によるギャグも、先述した「表現される以前の、行為そのもののギャグ」の例である。この2つの表紙ネタは私のお気に入りだ。ある人が商業でのギャグの難しさを「読者が『ギャグが来る』と身構えた状態で笑わせないといけないからハードルが高い」と論じていたが、画太郎のギャグはメタ的であるため、このような身構える以前の段階でのギャグを可能にしている。不意打ち的に生じるギャグは読者の意識の盲点を突く、実に効果的な手法なのである。

だが当然、彼のような捨て身のスタイルは作家の経済基盤を危うくする可能性もある。そして現実に画太郎作品は毎回打ち切りになっている。しかしこれすらも、画太郎の芸風でありギャグの1つであることは論を俟たない。「画太郎が暴走した挙げ句に、また打ち切り」という様式美により自らを作品のギャグ要素の中に溶解させる画太郎は、彼の描くキャラクターが現実への介入を試みるのとは対照的に、自身はフィクションの世界に埋没していく。長いキャリアを持つにも関わらず、ほとんど詳細不明な画太郎の神秘性が、現実の彼をどこか非現実的な存在に見せている。

嬉々として欲望剥き出しにする人間たちのドタバタをギャグ化し、さらに自らの破滅的性質をも芸術作品に昇華する姿は、牢獄の中で悪徳礼賛の暗黒小説を書き続け「俺の本性はどうすることもできないのだ」と叫んで友人家族をからかい続けたマルキ・ド・サドのようである。サドは自らが暗黒小説の体現者であり続け、放蕩の末に投獄された彼自身が1つの芸術作品であった。作品の中ではエログロがひたすら賞賛され、登場人物はほぼ全員が性倒錯者で、似たようなエロ表現を何度も何度も反復し、執筆が勢いに乗ると興奮のあまり彼のフランス語文法は滅茶苦茶になったという。ここでも現実とフィクションは限りなく漸近し、交わり、融解しているのである。

画太郎が彼の作風を意識的に生み出しているか、などと問うのは無意味だ。何故なら作為・無作為の議論は彼のリアル・メタフィクションの魔術の前に回収されてしまうからである。むしろ私は、彼がこれらのことを全く無意識のうちに実行していることを願う。それこそが天才の2文字が意味するところなのだから。

あらゆる常識に中指を突き出し、視点を転倒させ、世人を煙に巻き続ける疾風怒濤のオナニスト、画太郎。ギャグマンガ芸術の極北に春が来る。そこで我々は、自慰行為に耽って寝てしまった巨匠の安らかな寝顔と薄紙の枕を発見するであろう。

出典

図1:漫☆画太郎『星の王子さま』集英社
図2,4:漫☆画太郎『罪と罰』新潮社
図3:漫☆画太郎『ミトコンペレストロイカ』新潮社

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投稿日時: 2018/10/23 ― 最終更新: 2018/11/02
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