『刃牙』総論、勇次郎が無敵なのは「格闘史の総体」だから

計110巻にも及ぶ刃牙3部作は語るネタの宝庫のような作品で、切り口や対立項は無数にあるのだが、私としては『範馬刃牙』の締めくくり方を見てからずっと、この作品は人類の歴史に対する挑戦、絶対者に人が挑む神話がモチーフだと思っていて、今日はそれについて考えをまとめてみたい。

範馬勇次郎は格闘史の具象

勇次郎は当初、あくまで最強の格闘家たちの先頭に位置する、ピラミッドの頂点としての存在で、そういう意味では十分に息子のバキが打倒し得る、言わば「普通のラスボス」としてデザインされていたフシがある。地下闘技場編では愚地独歩に対して苦戦しているし、鎬紅葉との握力勝負では敗北すら見せている。ところが幼少編から徐々に彼の作品内での役割やポジションが変化を見せ始め、最強トーナメント編に至り、強さのヒエラルキーから完全に逸脱した、制御不能の「荒ぶる神」として猛威を振るい始める。世の中の多くの作品が「最強の存在」を描いているが、勇次郎ほど読者に信頼される「最強の存在」もない。

勇次郎はなぜ、かくも克明に強さを体現できるのか。

それは勇次郎が、人類が格闘史において積み上げてきた、あらゆる技術や哲学を内包する存在として描かれているからである。つまり彼が知らない格闘理論などなく、彼が再現不能な格闘技術は存在し得ず、彼が精神的に遅れをとることもない。勇次郎は歴史そのものなのだ。この形而上の格闘精神が、究極の肉体を依り代として降り立っている。そのため理論上、勇次郎は他の総ての格闘家の上位互換であり、少なくとも1対1で正面から戦いを挑む限り、彼が敗北することはあり得ないことが保証されてしまっている。

刃牙シリーズは、この「絶対に倒せない存在」である勇次郎に対し、母親殺害による永遠のエディプス・コンプレックスを植え付けられた息子、刃牙が戦いを挑む物語なのだ。

しかしここで当然「絶対に倒せない存在」をどう打倒するかという、シンプルにして究極の難題(というより矛盾)が立ちはだかる。念を押しておくと、勇次郎は「途方もなく馬鹿げた強さだが、主人公も際限なく強化されればいつか打倒のチャンスが訪れる」ような存在ではない。先に述べたように、究極の学習能力と貪欲さを兼ね備えた勇次郎は、人類のあらゆる強さを内包する存在であり、仮にとてつもない覚醒の連続で刃牙のレベルが99に達したとしても、勇次郎はその瞬間にレベル100に進化してしまう。勇次郎は格闘に関しては無限の教養と素質を備えているので、有限の存在である他の人類は絶対に勝てぬよう、物語世界に定められてしまっている「本質的に勝てない」存在なのである(少なくとも3部作内では)。これはストライダムの「宇宙がさらに広がるように、強さの膨張を続けている」という趣旨のセリフで示唆され、『バキ』の擂台賽編において、格闘理論と技術の究極の到達点にある郭海皇の奥義が、あっさりコピーされた挙げ句に敗北を喫した時点で完全に証明された。

つまりこの命題は、最初から不可能性が明らかなのである。過去に同様の命題に挑んだのは石ノ森章太郎の『サイボーグ009』だが、恐らくこの作品では「勝てない敵に勝つのは無理」ということで何度も挫折した挙げ句、答えが出る前に作者が死んでしまった。もし万が一、板垣氏がこの命題を「正面から」克服してしまった場合、それはマンガ界の画期というより、人類の哲学史上におけるマイルストーンにすらなったかもしれない。

『バキ』での哲学的思索

それで結局『グラップラー刃牙』時点での結論は何かと言うと「刃牙は勇次郎に勝てない」だった。まあこれまでの議論を踏まえれば当たり前の話なのだが、勇次郎が最後に(彼を除いては)作中最大の強敵であったはずのジャックを、路傍の石のように一蹴するシーンから「刃牙は現人類最強まで上り詰めたが、それでも勇次郎との比較では問題外なくらい弱小」であることが示された。

そして『バキ』では偶発的ストリートファイトにおける格闘士の現場性が描かれると同時に、裏では刃牙のさらなる成長、さらに哲学的視点からの勇次郎超克の可能性が模索される。

この第二部で重要なのは、烈海王の次のセリフである。

自己の意を貫き通す力――
我儘を押し通す力――
私にとっての強さとはそういうものです

これが長い長い伏線となって、ついに勇次郎打倒に結実することは、このときは作者すら予感していなかったかもしれない。

暴力による勇次郎打倒の見込みがないことは、『バキ』以後のシリーズでもますます強調される。となると勇次郎に「勝利」するには、暴力とは全く別の新しい方程式が必要になる。この模索が、格闘家の勝利とは「相手を先に戦闘不能にすること」、地下闘技場風に言えば「勝負あり!の状態にもっていくこと」である、という当初の定義への懐疑を生み「では勝利とは何か」という哲学的思索へと導かれていく。

つまり「勝利の定義自体を見直し、認識を変化させることで、絶対無謬の勇次郎を倒せるかもしれない」という一筋の希望を見出したのが『バキ』なのである。まあ周知の通り、内容的には中盤以降グダグダで、特にアライJr編の消化試合感は半端ないのだが、その中でも死刑囚編での勝利判定問題、郭海皇というスーパーかませ犬による勇次郎の打倒不可能性の補強といった、刃牙vs.勇次郎を完全決着させるための布石は巻かれ続けていた。そのため間延びしてはいたものの、全体として無駄な話にはなってないと思うのである。

『範馬刃牙』で描かれたのは「愛の超越性」

引き伸ばしの帝王として悪名高い第三部は、実際本当に酷いのだが、この作品で注目すべきは冒頭で「絶対無敵の存在も、その子なら打倒し得る」という神話のような宿命論が強調されていること(「誰も勝てないさ」「その人の息子でも?」「う~ん」の部分)、勇次郎vs.オリバや刃牙vs.オリバで勝利の定義を何度も破壊し再構築を試みていること、最終戦の壁画シーンにおいて刃牙と勇次郎の戦いの神話性が直接描かれ、直後にこれまでの問答を踏まえた作者の「答え」が提示されていることである。

これまでの話の中で作者は「敗北を認めなければ敗北ではない」「相手が死ねば勝負なし」「最後に頭がより高い位置にあるものが勝者」など、勝利の定義について様々な角度から批判と再定義を重ねてきた。そして最終的には「力を手に入れて何がしたいのか」「勝利によって手にするものとは何か」といった問いから、第二部での烈海王の定義「強さとはわがままを押し通す力」を答えとして再浮上させた上で「最後にわがままを通した者がより“強い”」として、刃牙への勝利、そして即座の敗北をもたらす。

冒頭の「絶対者の子供なら倒せる」という暗示の意味は「絶対者の子供は、絶対者と同等の肉体的素質を備えているから勝てる」という意味ではなかった。そうではなく「絶対者も人間の身体を依り代として地上に存在する以上、親子という情愛の連鎖に組み込まれており、無敵である絶対者も自分の子供にすねられては勝てない」という、親子愛の超越性と不可侵性を示すものだった。

そういう視点で物語を見直すと『グラップラー刃牙』幼年編において、母親の朱沢江珠が親子愛により、ある種の精神的勝利を収めて勇次郎の殺害予告を挫折させたこと、『バキ』で梢が愛こそが最強であると説いて格闘士たちの主張を退けていたことは、注目に値する。絶対者と人間の間に生まれた半人半神である刃牙は、肉体的な強さで純然たる絶対者である勇次郎を超克できないが、梢との関係において人間としての愛を経験し(勇次郎はレイプしただけなので経験してない)、父親への愛情も芽生えることで、最終的に憎しみではなく愛の力によって勇次郎の意思を折ることができた、という読みも可能かもしれない。この解釈においては、最終決戦前に刃牙が「カタキではなかった」としてエディプス・コンプレックスを克服し、父親との精神的和解に達していることは極めて重要である。同時に兄弟であるジャックは勇次郎打倒の突破口=愛を持っていないため、勝利条件を満たせず刃牙の代わりになれないことも説明できる。

この結論をもっと早い段階、理想的には『バキ』のラストで示せれば良かったのだが『範馬刃牙』での引き伸ばしがあまりにも酷く、ゲバルvs.オリバのようなトンチ合戦にしか見えない滑稽な戦いが続いたため、板垣氏は読者にとって狼少年になってしまった。そのため最後の結論部分も、単なるトンチ合戦による誤魔化しという印象が強くなってしまったのは誠に遺憾である。

まあ神話というものはグダグダと長ったらしく反復的なのが常だし、そういう点でも刃牙シリーズはとても神話っぽい、というこじつけのオチを述べた上で、本稿を締めくくろう。

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投稿日時: 2018/10/22 ― 最終更新: 2019/09/17
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