藤本タツキ『ファイアパンチ』 / 虚構とペルソナを巡る「物語」の物語

ファイアパンチ全巻のカバー
藤本タツキ『ファイアパンチ』集英社, 2016-2018年
(この記事のネタバレ度:中――深刻なネタバレはないが、物語の展開に多く言及する)

ネットや新聞を見ていると、毎日無数の物語が綴られている。匿名掲示板に投稿される自分語りの物語と、それに連なる大量のレスポンス。メディアで喧伝される「感動の実話」。デマとは、物語になり損ねた「物語の残骸」である。熱心な宗教家の目撃する「奇跡」「神のお告げ」という物語が、科学者から見ると平凡な自然現象にしか映らないこともある。

『ファイアパンチ』は「物語とはなにか」を自問自答し続ける、藤本タツキの強烈な「アンチ・ストーリー」マンガだ。ネット連載という特殊性があるとは言え、ついに「少年ジャンプ」というブランドを背負ったまま、このようなメタフィクションが語られるレベルまで近年の文脈レベルが向上していることに、驚きを隠せない。「少年ジャンプ・ブランドにおける限界の更新」という点では『デスノート』に迫るものがある。

このイレギュラーなメタマンガに対し、従来の読者が意味不明と感想を漏らすのは当然だろう。なぜなら本作は「物語を解体する物語」だからだ。人によっては「こんな奇をてらっただけの物語は全く面白くない」と断じるに違いない。だが私には、人間が紡ぐ虚構の本質に迫った、繰り返し読むに値する作品だと感じられた。

物語の枠組みの強奪

『ファイアパンチ』1巻では、ほとんど不死身に近い再生能力(なお劇中では能力者を「祝福者」と呼ぶ)を持った主人公アグニが「絶対に消えない炎」を他の能力者に浴びせられるという、人類史上最大の不幸に見舞われる。常に全身を焼かれ続ける地獄の痛みに耐えながらも妹ルナの仇を討つために、敵の炎を己の中に取り込んでいく、というあらすじだけ聞けば、壮絶な復讐劇を思わせるシリアスな始まりだ。アグニは妹を殺した炎の祝福者・ドマを殺すためなら、どんな痛みにも耐える。その悲壮な決意を胸に「氷の魔女」に凍らされた世界を溶かしながら歩き続けるアグニの姿は、どんな主人公よりも主人公らしい(図1)。

氷の魔女によって冷え切った世界を歩くファイアマン
図1:ドマの炎を浴びて「ファイアマン」と化したアグニ(藤本タツキ『ファイアパンチ』1巻 p.62-63, 集英社, 2016年)

出だしから「炎の祝福者」だの「氷の魔女」だの、心踊る「設定」が満漢全席常態で、実に少年マンガ的である。ところがこれらの「設定」に乗せられて語られる英雄譚の雲行きは、2巻から急激に怪しくなってしまう。なんと世界が凍る前からの生き残りである女道化師・トガタが「これは映画だ!」と言い出すのである。

トガタは主人公の悲壮も、敵兵士の残虐性も、雪に閉ざされた世界も、全てを「そういう設定・キャラ」というフレームで解釈し、映画の中に編集してしまう。アグニやドマにとって「今まさに私が直面している容赦ない現実」であるこの世界を「……という設定の映画だ!」と茶化してしまう。

完璧だ…!愛する妹は塵にされ、仇の炎を体に纏って、復讐の為だけに生きて、そしたら敵に妹そっくりの奴がいて…。

後は私がカタルシスを演出するだけだ…!

『ファイアパンチ』2巻, 集英社, p82-83

そしてカメラ片手に「監督」を自称し、アグニを主人公に祭り上げた映画を撮りだす。トガタは300年生きた再生の祝福者で、あらゆる武術や科学知識を身に着けた超越者なので、誰にも止められない。自分の知的優位を武器に、アグニにも悲劇の復讐者として振る舞うことを強要した上で、演技指導までしてしまう(図2)。

ネネトが“カメラガール”になって映画を撮っていくシュールな展開
図2:トガタによって復讐者の演技をさせられるアグニ(藤本タツキ『ファイアパンチ』2巻 p.62-63, 集英社, 2016年)

…と、ここまでならトガタは、物語という枠組みの外から作品世界に侵入してきて、あれこれとメタ的な言説を繰り広げるトリックスターに過ぎない。そういうキャラクターの類型は、例えば『デッドプール』とか、あるいは様々な西尾維新作品とかにも見られるだろう。

改変されていく物語

ところが『ファイアパンチ』内における「現実」に対する懐疑は、ここで終わらない。なんと当の復讐者であるアグニ自身が「“殺された妹の復讐のためにドマを殺しに行く”という行動原理は、自分が作り出した虚構に過ぎない」という「真実」に「気がついて」しまうのだ!

いや、主人公だけではない。「世界を雪に閉ざした氷の魔女」や「残虐なサディストであり復讐対象のドマ」という敵対勢力の実態も、物語が進むに連れてどんどん怪しくなってくる。全ての存在や記号が「そんなものは最初から存在しなかったんじゃないか」と疑われるのだ(図3)。

図3:『ファイアパンチ』の世界観は虚構で出来ている( 藤本タツキ『ファイアパンチ』)

ここで『ファイアパンチ』の物語は、一気に混迷が深まってくる。そして初期の「炎の復讐者アグニによるドマの打倒」などという物語は、ひたすらどうでもよくなり、筋書きはどんどん改変されていく。主人公が死んだ妹にそっくりな敵・ユダに感情移入して妹だと思い込み始め、しまいにはその「妹」を助けるための物語を作り上げたりして、脱線するのではなく、本筋そのものが変更されてしまう。

だからこの作品を一気読みすると、絶対に5巻あたりで混乱する。そもそもどういう物語だったのか、話のどの地点にいるのか、全くわからなくなってしまうのだ。まして、その先の展開など予想できるはずもない。

物語とは「後出しの編集物」に過ぎない

ここで起きている混乱はなんだろうか。それは初期の「映画化騒動」が、トガタという狂人の気まぐれな押し付けに過ぎなかったはずなのに、実は本作の話全体が虚構に覆われている事実を暴いていたことである。

……それは俺達が一緒に考えたデタラメだろ?

『ファイアパンチ』7巻

主人公たちが信じた世界観とは、実は、作品内現実にとっての「虚構」だったのだ。トガタ風に言えば、アグニやユダの信じる世界は一種の「映画」に過ぎなかった。もっと言うと、人間が「絶対に、たしかにここにあるもの」として信じる「現実世界」の枠組みそのものが、いかなる場合においても(我々が生きているこの現実であっても)「物語の体系=イデオロギー」に過ぎないということになる(例えば「国民国家」とか「テロとの戦い」といったもの)。

『ファイアパンチ』を読んでいると、登場人物たちはまるで、自分の期待していた「世界の真実」に対して、目の前の「現実」があまりにも見すぼらしかったから、自分の期待に応えてくれる新たな「世界の真実」を求めて、「設定」をとっかえひっかえしているように見える(図4)。そうして物語は「復讐劇」やら「メタフィクション」やら「家族愛」やら、異ジャンルを節操なく往復し、悪をでっち上げ、ラスボスはすげ替えられ、不要になった「過去の設定」は薪と一緒に燃やされて忘却される。

ユダに陰謀を語るトガタ
図4:物語をでっち上げようとするトガタ(藤本タツキ『ファイアパンチ』2巻 p.120)

まるで打ち切り間際の作家の暴走した夜明けの炎刃王状態だが、作者があらかじめ宣言していたように、これは確信された演出である。そしてこのような、あまりにも場当たり的で恣意的な「物語の捏造・すげ替え」の連鎖こそが、実は人間の紡ぐ物語の成り立ちなのだという告発が『ファイアパンチ』という作品なのである。

つまり人間が「既にそこにある物語」を認識するというのは、全くの錯覚であって、人間が自分にとって都合の良い「事実」を組み合わせ、事後的に好き勝手にでっち上げたものこそが「物語」である。人間は常に探し続ける。自己に都合の良い、もっともらしさに満ちた物語を。

だから本作の物語がどんどんおかしな方向へ暴走していくのも、ある意味リアルな描写である。私が『ファイアパンチ』を面白いと思うのは、まさにこの「物語の捏造」の過程――自己矛盾に直面したキャラクターたちの苦悶と倒錯の道のり――が克明に描かれているからなのだ。

なぜ演技が物語を強化するのか

作品内で何度も繰り返されているモチーフがある。それは「人格を演じる」ということである。

登場人物たちは、皆なにかを演技していることが次々と明るみに出る。そうして演技を繰り返す内に、次第に演技人格と本来の自分との境界が曖昧になり、最終的に演技人格が自分の本性だと信じるようになる。

自分が演技してる事を忘れてたんだ

『ファイアパンチ』3巻 p.30

そうして定着した演技人格を周囲も信じるようになり、それに合わせて、勝手に戦う理由を想像したり神格化したりする(図5)。するとまた、演技人格であったはずの人格もその気になっていき、そこに見えている物語が益々強化されていく。こうして物語は無限に膨張する。『ファイアパンチ』では、この流れが何度も繰り返される。

サンの神様発言から信仰対象になっていくアグニ
図5:サンやベヘムドルグの生き残りによって、神様に祭り上げられるアグニ(藤本タツキ『ファイアパンチ』4巻 p.102, 集英社, 2017年)

ここからはいくらか推測だが、以上の流れを踏まえれば、作品世界に「あらゆる災いの元凶」「全てを裏から操る黒幕」のようなものは存在しないだろうという結論が導かれる。作品内にスーリャという、いかにもそれらしき祝福者が出てくるが、あの人物もまた、そのような物語の連鎖の中で、結果的にたまたま「黒幕」らしき人格を演じていたに過ぎないのではないか。

絶望的な無知の世界で多くのことを知っていれば、自分こそが世界を支配する大魔王であるような気がしてくるはずだ。しかし例えばトガタも永く生きる中で自分の志を忘れ「ひょうきん女のトガタ」を演じていたことに気づいたように、スーリャの語る、企むことの規模に対して「とんでもなくちっぽけな動機」も、そのまま信じるには足りないということになる。他の人物がそうだったように、そういう動機づけは結局、生き続ける理由を作るための方便なのかもしれない。

物語は君が選べ

『ファイアパンチ』で語られることは、我々は常に事後的に自分の行動原理やアイデンティティを設定して説明していくものだし、そのような枠組みの中でしか生きられないということである。そして生じる「物語」と「現実」との軋轢の中で、「物語」を少しずつ改変して「現実」に適応しながら生きていく。

だから人は「自分のキャラ」という、一種の「物語」を場面によって改変し、ペルソナを付け替えていく。「現実」の圧力が恒常的に強い場合、時には本作の人物のように、ペルソナが自分の本来の顔と一体化して剥がせなくなり、新たな「本当の私」が作られることもある。

このように「本当の私」は環境に適応しながら、絶え間なく更新され続け、そんな中で「元来の自分」を保持したり認識することはとても難しいし、あるいはそんなものに執着する必要は最初からないのかもしれない。

サン、人は信じたいものを信じたいように信じるんだ

『ファイアパンチ』7巻

『ファイアパンチ』の主人公アグニも、物語の中で何度もアイデンティティの危機に見舞われる。そしてその自己認識が時に、あまりにもラディカルに変わっていくし、特に最終回で到達した彼の在り方はぶっ飛んでいる。

図6: 藤本タツキ『ファイアパンチ』8巻 p.140, 集英社, 2018年

しかしクライマックスでつぶやかれた「人はなりたい自分になってしまう」という台詞にもあるように(図6)、ラストのこの目まぐるしい主人公の変貌こそが、作品の最後のメッセージを象徴していると、私は解釈している。つまり人間は後付の解釈による物語の中でしか世界の在り方を認識できないし、「不動の確かな私」とか「確固たる現実」なんてものには到達できないが、それに絶望するのではなく、むしろ「人間は能動的に自身を包む物語を改変し続けて、自らの望む物語の海を生きることができるのだ」という変化していく自己の肯定こそが、作品のメッセージだと思うのだ。

物語の枠の外になんて出られなくてもいい。何度でも新しい物語を紡ぎ、再生して生まれ変わることができるのだから。

満足度:9/10

関連作品の紹介

物語が物語に言及することを「自己言及」と呼ぶが、このような自己言及的な作品はマンガより映画や小説に多い。こういうのはフランス人が得意。

まず「自己の認識そのものが自己という現実を作る」という哲学においては『マトリックス』(’99)のような作品が有名で、評価も高い。少し変わり種を出すとデビット・フィンチャー監督の『ゲーム』(’97)は、主人公が巻き込まれる「ゲーム」が、どこまで「ゲーム」なのか、話が入れ子構造になっており、無限降下していく多重構造を楽しめる。

マイナー作品では『ラバー』(’10)という映画が、映画の中で「これは映画だ!」と言い放ち、「もう演技止めていいぞ」「オレを銃で撃ってみろ。ほら、死なないだろぉ~」などと言い出す気の狂った自己言及映画となっている。

藤本タツキが明らかに影響を受けているのはタランティーノ監督作品で(例えば『ファイアパンチ』の最初のタイトル見開きはそのオマージュ)、中でも『デス・プルーフ』(’07)は映画の中でB級映画を上映するという、奇抜でありながら一般評価も非常に高い作品。

小説の分野ではなんと言っても太宰治作品が「虚構とはなにか」に頻繁に触れておりオススメ。例えば作中作が多重に出てくる『猿面冠者』など。他にも主人公の認識が常に歪んでいるという点から「信頼できない語り手」という類型も参考にされたし。

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投稿日時: 2020/01/23 ― 最終更新: 2020/02/13
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