『約束のネバーランド』虚構脱出物のジレンマに陥った物語

信じ込まされていた世界観が完全な虚構で、住んでいた楽園が自分たちを家畜として肥やすための飼育場であった、という点では『マトリックス』的であり、そこから脱走するために無知な家畜を装ったまま飼育者と駆け引きをする心理戦は『デスノート』的であり、楽園の外側の「鬼」たちが支配する世界と人類家畜化の歴史を解明していく点では『進撃の巨人』的である。様々な要素のミックスが感じられる作品で、1-5巻の脱獄編は大きな成功を収めている。

囚人と看守の探り合い

主人公の少年たちは施設から外の世界へ逃亡することを「脱獄」と表現する。そして実際に、監視の目を掻い潜りながら脱出用の物品を調達したり、「鬼ごっこ」に偽装して集団脱獄の肉体的訓練を積む様子は、まさに夜中にスコップで脱出口を掘る如き「脱獄」を連想させる。ただし本作では「ママ」という、養母の役割を担った家族が看守の役割を担っているので、この脱走計画は愛し合う家族を擬態しながら粛々と行われるという、少年誌にしてはなかなかダークな設定となっている。

子供たちの脳の健全な発育が家畜の市場価値を決めるため、表面上は平和で互いを尊重し合う関係が維持されていなければならないしかし看守役である「ママ」も失敗すれば上層部から消されてしまうしがない管理職でしかなく、何者かが脱獄を企てていることを感知した彼女は、優しい養母を装いながら全力でこの計画を探り出す。かくして子供たちと養母の間で熾烈なスパイ戦が繰り広げられるのである(図1)。

図1:「ママ」と子供たちの騙し合い

こうして幸福な家族を装ったまま行われる探り合い、騙し合い、ユートピア風の情景と裏腹の徹底した人間不信の描写が、かなり濃厚である。少年ジャンプでこれほど綿密に練られた心理戦が繰り広げられるのは『デスノート』以来と言っていいだろう。実際、影響を大きく受けていると思われる、キャラクターの認識や思考のズレを利用した心理戦が頻繁に挿入される。

キャラクターの視点を書き分ける

例えば物語中盤で一時同盟状態になる管理側の「シスター」は、主人公たちが耳に埋まった発信機に気づいていながら、あえて知らない風を装って質問をしていたことを「発信機の事実を知らされたのに耳を確かめないのは不自然」と看破してこう言う。

なぜわざわざ聞く必要のない発信機について聞いたの?
何か私に隠したい…内緒にしたいことでもあるのかしら?

こうした「こいつはこの情報を知らないはずなのに、こんな反応をするのはおかしい」という探りは、まさに『デスノート』風で、知能戦の雰囲気はよく出ている(図2)。まあ漫画的な都合を感じさせる点もいくらかあるし、細かく読めばアラもあるだろうが、ざっと読んでいる感じだとあまり気にならない。それよりも心理戦と並行して次々に解明される謎や、子供たちの「出荷」が迫る絶望感、緊張を途切れさせない矢継ぎ早なサスペンスの導入によって、常に続きを見たい気にさせてくれる。私はコミックで後追いしたのだが、3巻、4巻……とどんどん買い足して一気に読んでしまった。

図2:多用される「情報の不完全性」に基づいた駆け引き

また『デスノート』では、犯罪者殺しの倫理問題は棚上げされ、あくまで超人同士による頭脳戦にフォーカスしていたのだが『約束のネバーランド』は両親喪失して「商品化」される子供たちの悲哀も、主題ではないが、ちゃんと描いている点がいい。脱獄のメタファーで捉えるなら、施設の子供たちは死刑囚である。しかも愛すべき両親を実質的に二度失った、天涯孤児の死刑囚である。主要人物の一人が「出荷」される日、すなわち死刑執行日に繰り広げる葛藤は実に痛ましく、だからこそ子供たちの団結が一層強靭なものとなって、自分たちを物へと貶める大人たちへの反抗へと結実する様子に説得力をもたせている。絵的には些か少女趣味過ぎるきらいもあるが、感情や苦悩の表現は良くできていると思うのである。

脱獄以後の弛緩

さて、ここまで本作をかなり褒めてきたのだが、残念ながら6巻以降の展開は、全然面白くない。脱獄した後は作風が大きく変わり、間延びしたファンタジー冒険漫画になってしまうのだ。その理由は大きく分けて2つある。

1つは、緊張感の喪失である。脱獄までは主要人物3人が間もなく「出荷」されるというタイムリミットがあり、これが物語に謎とサスペンスを途切れなく供給する動力源となっていた。しかし脱獄後の世界には、そのような切迫感がないのである。それまで閉じた世界が収縮し続けて主人公たちに迫ってきていたのに、それが突然開けた世界に出てきてしまって物語が弛んでしまった。

いま1つは、リアリティの喪失である。主人公たちが育ってきた施設は、現実世界と地続きの空間として描かれ、脱獄の物語は日常の裏に隠された陰謀への反抗であった。ここで読者は、このディストピアを自分が日常属する空間、例えば学校とか会社とかにある程度重ねて見ているわけで、だからこそ日常の裏で繰り広げられる駆け引きにスリルを感じていた。ところが脱獄後の世界は「鬼」が支配している完全なファンタジーワールドで、戦う相手は人間から正体不明の巨大生物などに変わってしまう。そこでも脱獄前と同じような頭脳戦を描こうとしているのだが、知能を持たない怪物相手の運否天賦な逃走描写が増え、その中に無理やり主人公たちの知性や勇気の卓抜ぶりを描こうとするあまり、賢さの自作自演のような印象を受けてしまう(図3)。これは5巻以降に突然、現実味の感じられないスケールまで話を拡大して延命を図り、リアリティを失った『デスノート』と全く同じ失敗である。

図3:未知の生物たちとの「頭脳戦」

脱獄後の世界では、実質的に全く別の物語が始まっていると言っていい。しかしそれでも面白くするためには、傑作2本分の力が必要なのである。

本作はエクソダスを描く物語の類型であり、収縮し迫りくる世界から外界へ逃げるまでの緊張感は半端ないが、それは閉じた物語として完結することを前提とした一種のドーピングなのだ。だから脱獄後は猛烈な勢いで結末に向かわなければ緊張感を継続させる手段がないし、話を長く続けるには最初から開けた物語としてデザインするしかなかった。閉じ行く物語を閉じずに続けるのは「ズル」なのだ。

他にエクソダスを描いた類型として『マトリックス』があるが、その続編では虚構からの脱出自体が一種の虚構であるという、虚構の入れ子構造によって、1作目の面白さの枠組みの復活を試みた。そして見事に失敗した。やはり「ズル」は通用しなかったのである。

連載としては本作の物語は続いているかもしれないが、私の中では脱獄の終わりと共に彼らが永久に監獄から逃げおおせた、それでいいではないかということにして、本を閉じるのである。

出典

図1:白井カイウ(原作)出水ぽすか(作画)『約束のネバーランド』1巻, 集英社
図2:同3巻, 集英社
図3:同8巻, 集英社

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投稿日時: 2018/10/20 ― 最終更新: 2019/03/05
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